創刊30年記念企画 シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第1回千里ニュータウン


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現在、 そして未来にもつながる過去の情報を取材、 編集し、 記録する特集です。北摂の歴史から、 私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第一回は、千里ニュータウンの開発事業に従事された、 片寄俊秀さんにお話をお聞きしました。

歴史案内人


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取材協力 片寄俊秀さん
1938年生。京都大学工学部建築学科卒。1962年より1970年まで大阪府企業局宅地開発部企画課、建設2課に勤務。この間千里、泉北ニュータウンの開発事業および大阪万国博関連事業に従事。主たる著書「実験都市ー千里ニュータウンは如何につくられたか」「商店街は学びのキャンパス」「まちづくり道場へ、ようこそ」
 

第1回 千里ニュータウン

なぜつくられたのか

1950年代、 戦後の日本は深刻な住宅不足に陥っていた。
戦火で家を失った人、 海外の植民地から帰ってきた人、職を求めて地方からやってくる人々が大都市に密集。当時の鳩山内閣にとって、住宅供給は大きな政治課題だったという。大阪市もまた人口が集中し、 早急な住宅供給が必要だった。
そこで大阪府は、中央環状線を中心に吹田市と豊中市にまたがる丘陵地を居住人口15万人規模の 「千里ニュータウン」 として建設する計画を打ち出した。「これほど大規模な新都市開発構想は日本で初めてでした。当時の大阪府には、 それだけの大きな権力と財政力があったんです」と片寄さん。1960年、大阪府に企業局が新たに設置され、独立採算式で都市建設を行う体制が整った。
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図1 南(堺泉北)、北(千里)、中央(中央環状)という地域バランスのもと、実現への検討が進められた。


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図2 プランナー(大阪府および学会関係者)による全体構成計画の検討が始まり、数多くのプランが提案された。この図は鉄道系統および都市中心パターンの
提案(一部抜粋)。




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図3 図2のパターンを基本とし、現地形に対していかに適用するか。さまざまなパターンがプランナーによって検討されている。阪急や地下鉄を中心とした住宅パターン案(一部抜粋)。


まちづくりの計画

千里ニュータウンの開発地は当時、 ほとんどが農家が所有する山林や田畑だった。
そのため、 1958年には用地買収に向けて農家との交渉がスタート。 建設工事は同時に進行していった。折しも世界はニュータウンブーム。 まちづくり計画には世界中のニュータウンのモデルが参考にされた。 特にイギリスやアメリカが行った都市開発のアイデアを参考にした。 鉄道をどう伸ばすか、駅や学校など、 どこに配置するか、 ということを街全体で総合的にプランニングしていった。また、片寄さんによると、計画は満州の植民地経営の流れも汲んでいるという。 「満州国は、近代的都市計画のもとに水道や電気、 ガス、 さらには学校や病院といったインフラ整備を進めました。 そのプランが、 千里ニュータウンの建設プロセスとうまく合致したんです。 南満州鉄道 (満鉄) で働いていた人たちが帰国すると、 ニュータウン建設にたずさわり、 満州国建設で培った計画や技術のノウハウを活かしました」。 将来の高齢化を見据え、車がなくても生活ができるように、 駅の近くに集合住宅区をつくり、そのまわりに学校やスーパーを配置。 地域で生活が完結できるコンパクトシティを実現させた。

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写真1 千里丘陵の写真。ぼうぼうとした山林と農地が広がる丘陵。この地に千里ニュータウンが建設された。



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写真2 道路の測量のようす。写真には牛によって畑を耕す牛耕がみえる。



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写真3 最初に着工された高野台と佐竹台



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写真4 宅地造成中の竹見台



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写真5 竹見台造成地と建設中の竹見台高層住宅



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写真6 新千里南町下水管工事




「イギリスのニュータウンの中心には、必ず教会があります。ですが国教をもたない日本では宗教の誘致は難しいため〝神さん〞がつくられなかった」。
ちなみに片寄さんは3年前(2012年)の正月にみた初夢から、「千里ニュータウンではどこへ初詣に行くのだろう」と思ったそうだ。そこで上新田に行った。「千里中央から人の列が天神さんに続いていた。上新田の神さんがニュータウンの神さんになっているんだと気付いたのです」。上新田は千里ニュータウンの重要な役割を果たしているそうだ。また「イギリスでは地域のコミュニティの場としてパブをつくっていた。これを千里ニュータウンでは、公衆浴場をつくり、裸の付き合いで地域のコミュニティを深めようと考えていました」。片寄さんは「まちの魂」ともいえるコミュニティがいかに重要なのかを語ってくれた。

都市建設の途中には、大幅な計画変更もあった。「今、阪急千里線の終着駅は北千里ですが、そこからさらに箕面へと線が伸び、阪急箕面線と繋がる計画もありました。それから、桃山台駅は当初計画にはなくて、後からニュータウンに入ったものです」。早期段階から頓挫してしまったものの、「千里市」構想も浮かんでいたという。1962年、佐竹台に最初の住民が入居。千里ニュータウンは日本初の大規模計画都市として注目を集め、一時は13万人もの人々がこの地で暮らしていた。

【千里ニュータウンの完成】
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写真7 中央地区公園展望台(千里中央公園)


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写真8 南地区公園(津雲台)



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写真9 南地区センター(阪急南千里駅)



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写真10 新千里北町近隣センター



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写真11 北千里駅バスターミナル



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写真12 桃山台駅



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写真13 中央地区センターホテル(千里阪急ホテル)。日本万国博覧会のアクセス路線として万国博中央口駅まで開業した北大阪急行電鉄の仮設駅がみえる。


これからのまちづくり

千里ニュータウンのまちづくりについて、 片寄さんは 「車なしで暮らせるというのは、 計画都市ならではの誇り。この原則を大切に、人が集まる場所を積極的に整備できるといいですね」と話す。最近では商店の閉店が目立つ近隣センター。もともと、飲食店やデイケアなど、人が集まる場所を作りやすい構造になっていることから、 放置するにはもったいない、 と指摘する。「現代都市の弱点は、 孤立してしまうこと。 人々が何気なく集まる場所があれば、 住みよくなり、もっとまちが面白くなるはずです」。千里ニュータウンのまちづくりはまだ始まったばかり。より良いまちにするため、片寄さんは熱いエールを送り続けている。
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写真14 千里丘陵住宅地区開発計画図。最初に「マスタープラン」を作り、「近隣住区理論」にもとづいて、道路・鉄道・公園・学校・商店などを総合的・計画的に配置した。


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著者 片寄俊秀
「千里ニュータウンの研究」1979年発行、関学出版会オンデマンドサービスで復刻・販売中




※写真1〜14 出典:大阪府「千里ニュータウンの建設」(大阪府公文書館所蔵)
※図1〜3 出典:片寄俊秀著書「千里ニュータウンの研究」

取材を終えて

現在では考えられない千里ニュータウンの壮大な計画、そして開発にまつわ る数々のドラマ。また、50年以上も前に高齢化問題や、福祉、環境等を見据 えたコンパクトシティの考えがあったということや、用地買収のこと、桃山台は 桃の産地だったということなど、とても本紙1ページで収まる取材ではありませ んでした。「本来集落があって“まち”を形成するもの。人間が勝手に“まち”を つくっていいんだろうか」という片寄先生の言葉が印象に残りました。
編集部 尾浴 芳久


この記事を書いた人:

シティライフ編集部
北摂・阪神の地域情報紙『シティライフ』の編集部です。 市民記者の皆様と一緒に、地域密着の情報をお届けします。

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