シティライフアーカイブス 100年前から「エコ」、関西大学


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校舎の再利用、企業からお寺まで

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第23回は「関西大学」について紹介します。

歴史案内人


取材協力 深井 麗雄さん

元毎日新聞編集局長で関西大学文学部非常勤講師の深井麗雄さんが、関大の校舎建築の不思議な歴史を取材しました。

 

昨年創立130周年を迎えた吹田市の関西大学。その歴史をひも解くと、古い建物の再利用が目立つ。1世紀も前から「もったいない」の精神で、結果的に環境への負荷の少ない建築を重ねた足跡をたどる。

校舎をそっくり移築

関西大学は明治19年(1886年)、大阪西区京町堀の願宗寺で設立された関西法律学校から始まり、大正時代には大学昇格を果たしたが、このころの急務は、学生の増加に伴う校舎の充実だった。例えば明治38年(1905年)西区江戸堀の江戸堀校舎が北区上福島に移転することになった。当時、学生数は1000人近くに増えていたが、資金は十分ではないので、江戸堀校舎をそっくり移築したのは、ごく自然な成り行きだった。現存する江戸堀校舎と福島校舎のセピア色の写真を見比べると、撮影の方向は異なるが同じ木造2階建てで、窓の構造も酷似している。

 その後大正11年、(1922年)に現在の千里山学舎が竣工し、昭和の初頭には千里山に大学本館が完成した。この本館も新築ではなく移築だった。寄贈したのは住友財閥。東区北浜にあった住友合資会社の社屋を関大が譲り受けた。現存する写真を見ると、住友合資会社は一部3階建てで3階建て部分は8角形のドームになっており、移築後の本館にも8角形ドームが再現されている。

移築された江戸堀学舎(関西大学年史編纂室提供)



移築後の福島学舎(関西大学年史編纂室提供)



住友合資会社本社(関西大学年史編纂室提供)



 

校舎がお寺に変身

建物の有効利用は、大学内への移築だけではなく、大学外へ引っ越した例もある。昭和7年(1932年)2月、千里山キャンパスに竣工した講堂兼武道場の「威徳館」がそれだ。学生1千人を収容でき、入学式や卒業式などのほか柔剣道の演舞場、さらに戦後は大教室としても使われたが、昭和28年(1953年)末に、新学舎建設のため解体された。この頃、千里山駅周辺が住宅開発などで人口が増え、近くにあった千里寺の檀家も急増。本堂を建設しようという気運が高まり、檀家の一人だった関大OBの仲介で、「威徳館」は本堂として無事に再生された。

威徳館の内部(関西大学年史編纂室)



千里寺本堂の内部と武田達城住職



 

本堂に巨大なシャンデリア

 この本堂はちょっと風変わりだ。140畳ほどの広さの天井からは直径1.5メートルの巨大で豪華なシャンデリアがドーンとぶら下がっている。その奥にある仏像より大きく、初めての人は度肝を抜かれる。しかしルーツをたどると、なるほどとうなづける。

千里寺の本堂





 

ルーツは昭和天皇ゆかりの饗宴場

 「関西大学百年史」によると、昭和3年(1928年)、京都で昭和天皇の即位の大礼が行われ、その饗宴場として使われた建物だったことがわかる。「京都御苑内に新造された壮麗な白木造り」で大礼後分割され、申請していた観心寺(大阪府河内長野市)、橿原神宮(奈良県橿原市)と関西大学に移築された。
 
建物の使用目的は三転したが、戦後の千里山地区の発展が、歴史的に貴重な建物の命をつないだことになる。武田達城住職によると今でも年に1回、関大文化部の「落語大学」OBが本堂で寄席を開いており、大学とお寺の不思議なご縁は、これからも綿綿と続きそうだ。


 

取材を終えて

 大学に限らず、明治から昭和にかけて頻繁に木造建築の移設が行われたようです。それは「もったいない」精神の発露でしたが、今風にいえば「環境に優しい建築方法」だった、と気づきました。同時にそれなりのドラマを秘めた建築もあり、なかなか奥の深い世界です。
シティライフ編集部 尾浴芳久


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北摂・阪神の地域情報紙『シティライフ』の編集部です。 市民記者の皆様と一緒に、地域密着の情報をお届けします。

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