創刊30周年記念企画 シティライフアーカイブス 山田村


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山田村


昭和30年に吹田市と合併した山田村は山田千軒、吹田千軒といわれた大きな村でした。古くは平安時代から江戸時代に栄えた寺社がある山田村。本特集では吹田市との合併前後の歴史を紹介します。

歴史案内人

表紙

山田郷土史 「山田のあゆみ」

編集発行:山田自治会郷土史編纂委員会

2001年に発行されたこの郷土史をもとに本特集を作成しました。

写真は全て野口昭雄氏撮影




山田の地名の起源

西暦478年、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)の豊受大神(食を司る神)が、丹波から伊勢の山田ケ原に遷座された。同じ頃、天照大神の親神である伊邪那岐命と伊邪那美命が小川谷の地に祀られて伊射奈岐神社(吹田市山田東)が創建されたことから、この地もまた伊勢にちなんで「山田ケ原」と呼ばれるようになったことが起源と伝えられている。

マップ01


 

山田村が吹田市に合併されるまで

 明治22年、町村制の施行に伴い山田上、山田中など5 区画が合併し、島下郡山田村となった。明治29年には、郡制施行のため島上郡と島下郡を合わせて三島郡が発足。山田村(現吹田市・茨木市)のほか、岸部村(現吹田市)、吹田村、千里村(現吹田市)など合わせて32村で構成されていた。昭和30年に吹田市に合併されるまでの山田村を振り返る。

マップ02

昭和20年ごろのMAP
昭和15年4月1日に三島郡吹田町、千里村、岸部村、
豊能郡豊津村の4町村が合併し「吹田市」が誕生。出典:「山田のあゆみ」


 

合併案は現在の摂津市か吹田市に意見が分かれた

 昭和20年代後半の山田村では、戦後の混乱から立ち直り、小中学校の整備や工場建設が進むとともに、京阪バスから経営権を譲渡された阪急バスにより路線バスの運行も始まった。この頃から、行政を合理的かつ能率的に運営し住民の福祉を増進するために、市町村を適正規模に拡大しようとする気運が全国的に高まり、「昭和の大合併」へと突入していく。山田村でもまた、昭和27年に山田村合併協議会が発足。約15k㎡の広大な地に人口わずか9 0 0 0 人ほどが住む農村地だったため、村長と村議会で合併に向けた協議が進められていた。昭和28年になると、国策として町村合併促進法が施行される。山田村では、当初からあった吹田市への合併案に対し、三宅、味舌、山田の3町村合併案が千里丘長野選出議員から提出されるも、再三の審議の結果吹田合併派に反対された。昭和29年には山田村議会に合併問題協議会委員会が発足。他町村にも働きかけて、合併の利害得失の調査研究を行うことが議決された。合併案は、山田、三宅、味舌の3 町村での合併、これに味生と鳥飼を加えた5 町村での合併(現摂津市との合併)、さらに5町村での合併後に吹田市と合併する3案。山田の各地区では、夜ごと公聴会が開かれ、住民と意見が交わされた。同年11月、山田、三宅、味舌の3 町村合併では財政的に自立できるとの見通しが立たず、吹田市から有利な合併要件が提示されたこともあり、1村でも多くして吹田市と合併することに決定。しかし他町村は吹田市との合併には消極的で、山田村だけが吹田市と単独合併することになった。昭和29年、山田別所の一部だった春日丘地区については、地形上の理由から山田村と分村し茨木市に編入されることが決定する。翌30年には、山田下の千里丘を中心とする合併反対派議員により、下千里丘第二小学校区も分村し三宅や味舌とともに「千里丘町」とする案が提出されたが、これは否決された。こうした紆余曲折を経て同年10月15日、山田村と吹田市の合併が成立。廃村式の後、山田村役場は廃庁となった。

山田下イズミヤ付近s30

山田下イズミヤ付近 昭和30年


農協筍缶詰工場北大阪農協本部建築中s29

農協筍缶詰工場北大阪農協本部建築中 昭和29年


今竹の坂道を登るバス弘済院s3004

今竹の坂道を登るバス弘済院 昭和30年


山田下から山田中学s29

山田下から山田中学 昭和29年


 

山田ケシタニ地下弾薬庫

第二次世界大戦の只中にあった昭和19年、海軍大阪警備府により山田別所ケシタニに地下弾薬庫が建設された。幅、高さ共に4m、総延長1 0 0 0 mの庫内に納められた爆雷や機雷は、少なく見ても1400発、400〜500tあり、本土決戦時に大阪湾の封鎖に使われるためのものだったといわれている。弾薬庫は軍機密で設営され、地元村民の立ち入りは禁止された。戦後は、連合軍が爆弾を運び出し爆破処理を行ったが、爆音と振動で民家の屋根瓦が落ちガラスが割れる被害があったという。

 

山田とニュータウン

昭和35年、千里丘陵に15万人が住まうニュータウン建設の構想が発表される。大規模な用地買収が始まり、山田では5k㎡が3.3㎡あたり1 7 5 0 〜2 0 0 0 円程度で買収された。土地を売った農民は、他産業に就職したり商売を始めるなどして離農していった。中には文化アパートを建築して家賃収入を得たり、他工場に融資して財産運用する人もいたという。またこの開発によって、高野台、佐竹台、津雲台、古江台、藤白台、青山台という新しい町が生まれた。
 昭和38年、ニュータウンへの入居が始まる。竹やぶと田園が広がっていた山田が超近代都市として生まれ変わったことは、住民の誇りだった。ただ、「山田の地名はニュータウンのどこにも残らず、その地が山田の一部だったことを知る人が少ないことは残念である」と山田郷土史に記されている。

山田の祭-下大神木付近s32

山田の祭-下大神木付近昭和32年


北消防署付近にごり池から小野原-弘済院s310599

北消防署付近にごり池から小野原-弘済院昭和31年



 

吹田市山田村合併協定書(一部抜粋)

◆山田村の一般職員は引き続き吹田市の職員として引き継ぐものとする。
◆千里丘清水線、新設継続事業の実施、千里丘新芦屋線新設、豊中茨木線新設、葛上線改修、竹谷線改修、春日丘線改修、佐井寺山田線改修、山田川改修。
※合併にあたり山田村に道路改修等の条件が記載されていた。

 

取材を終えて

阪急山田駅の南東に、昔ながらの家屋が立ち並んでいます。以前、私は吹田市山田東に住み、この界隈を歩いたことがあります。路地が入り組み、情緒ある風景と神社仏閣などを見ていると、昔の暮らしや行き交う人の気配を感じることができます。吹田市と山田村の合併はほんの60年前。北摂の中でも劇的に変化を遂げた町ではないでしょうか。
シティライフ編集部 尾浴芳久


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シティライフ編集部
北摂・阪神の地域情報紙『シティライフ』の編集部です。 市民記者の皆様と一緒に、地域密着の情報をお届けします。

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