60周年の節目に生まれた「千里ニュータウンのうた」フォーク界の重鎮が“まち”への思いを込めて歌う
2022.12.10
吹田と豊中の丘陵地を切り拓いて開発した千里ニュータウンは、今年で誕生から60周年を迎えた。そんな節目の年に生まれたのが「千里ニュータウンのうた」だ。歌を作ったのは、日本のフォークソング創世期から現在に至るまで活動を続ける高石ともやさん。この歌が生まれたきっかけは、フォークソングを愛する千里ニュータウン在住の有志たち(=以下有志たち)が、高石さんとのある接点を見出したことにあった。
かつて暮らしたまちへの思い
時はさかのぼり1960年代後半。東京の大学に籍を置きながら旅から旅の暮らしを続けていた高石さん。新潟のスキー場でアルバイトをしていたとき、自宅へ帰るスキー客の車に同乗して大阪の地に降り立った。当時建設中だった千里ニュータウンで「鉄筋屋」をし、ある日アマチュアのフォーク集会で飛び入りでフォークソングを歌った。それがデビューへつながった。その頃、千里ニュータウンに住んでいた。関西を基盤に心に響くフォークソングを歌い続けた。
2021年の3月、「誕生から60周年を迎えたまちのために歌を作ってほしい」という有志たちからの依頼が高石さんの元へと届いた。そうして生まれたのが「千里ニュータウンのうた」だ。
「当時のことを思い浮かべながら歌を作りました。まちができるよりも前から住んでいる人がいなくて、知らない人同士でもあいさつを交わすあの雰囲気が好きでした」と当時を振り返る高石さん。制作を依頼した有志たちから「まちの活性化や、地域でがんばる人の応援になる歌を」というリクエストがあり、千里ニュータウンの今の姿を見るべく現地へと足を運んだという。「きれいなまちになったな」と感慨に浸りつつも、居並ぶ団地の窓からそこに暮らす人たちの息づかいを感じ取った。
歌に込めた、生きている実感
「歌の中に『窓の数だけ朝がある 窓の数だけ夢がある』という一節があります。みんな豊かで楽しいばかりじゃなくて、暮らしに余裕がなかったり、友達がいなくて孤独だったり、それぞれが色んなものを背負って生きている。そんな人たち同士の触れ合いが生まれるのが、千里ニュータウンのおもしろいところだと思うんです」。
高石さんがそんな思いを歌に込められるのは、彼自身の一貫した生き方が大きく影響している。1941年生まれの高石さんは、戦中戦後の過酷な幼少期を生き抜いてきた。「楽しいなんて言葉に実は重みはないんですよ。しんどいこと、辛いことを経験する方がよっぽど生きている実感がある。そんな経験をじっと味わって、乗り越えてこそ人生はおもしろい。しんどいと口には出さず、苦しいことも耐え抜いて笑う。それが僕の生涯を通してのテーマです」。
「受験生ブルース」など数々のヒット曲を生み出し、80歳になった今もフォーク世代を中心に絶大な支持を受ける高石さんは、そんな人生観を歌に込めて活動を続けている。
呼吸するように共鳴できる歌に
「僕はいつも鼻歌から歌を作ります。鼻歌は呼吸と同じで自然と出てくるもの。ステージで歌うときも、こちらの呼吸とお客さんの呼吸が合うことで素晴らしい演奏になるんです。そうやって自分とお客さんが調和して共感する世界を作るのが僕の音楽です」。
「千里ニュータウンのうた」には、「理屈っぽくなく気楽に口ずさむことができて、この先ずっと残る歌になるように」との思いも込めた。高石さんが歩んできた道のりと“まち”への思いが一つになった「千里ニュータウンのうた」は12月の1ヵ月間、FM千里(83.7MHz)の「パワープレイ」で聞くことができる。高石さんが発する「呼吸」をぜひ一度その耳で感じてもらいたい。※この曲の問い合わせは「千里ニュータウンのうた」ホームページ(https://senri-newtown-uta.com)から確認できる。
高石ともやさん
1941年 北海道雨竜町に生まれる。
1960年 立教大学文学部日本文学科に入学。
1966年“思い出の赤いヤッケ”でフォーク歌手としてデビュー。その後“受験生ブルース”“陽気にゆこう”などを発表。ギター1本で全国を歌いまわる独特のスタイルを築く。
36歳からホノルルマラソンに参加し、40歳の時には日本初のトライアスロン大会で優勝するなど「走るフォークシンガー」とも呼ばれている。
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