
吾翔けるvol.9-歴史と向き合う日々-
現在、朝日新聞朝刊にて楠木正成(くすのきまさしげ)の子、楠木正行(まさつら)を主人公とした小説『人よ、花よ、』を連載している。正成をご存知ない方もいるだろうから簡単に説明する。
いわゆる南北朝時代の人だ。この時代は学校で習ってもよく判らないという声をよく耳にする。南北朝時代を説明すると、かなりの枚数を食ってしまうためここでは省く。
元は河内国(かわちのくに)出身の豪族とされてきたが、最近の研究では歴とした御家人だったとも言われる。ともかく後醍醐(ごだいご)天皇が倒幕を志すと、正成は現在の千早赤阪村で蜂起して城に立て籠もったのは確かだ。そして、十万とも言われる鎌倉幕府の大軍に対し、千から二千の小勢で奮闘した。一度目は先に後醍醐天皇が捕まってしまって逃げ出すが、二度目の時も大軍を引き付けて倒幕に貢献する。


後醍醐天皇から足利尊氏(あしかがたかうじ)が離反すると、最後は朝廷の命に従って、千に満たぬ兵で数万の足利軍に十六度の突撃を掛け、尊氏の弟である直義をあと一歩まで追い詰めるも、最後は残った七十数人の配下と共に切腹して果てた。これがざっくりとした正成の説明である。
南北朝時代の中で、正成はかなり有名であるが、その子の正行となると知っている人はかなり少なくなる。だが戦前生まれの方は、とあるエピソードが教科書に載っていたことでご存じの方も多い。それが「桜井の別れ」というものだ。
正成が死を覚悟して最後の戦いに臨む時、父は死ぬが、お前は生き延びて朝廷に、帝に尽くせと言い含めて、子の正行だけ帰らせようとする。その場所が「桜井駅(さくらいのえき)」ということで、先の名が付いた。
そもそも実際にあった話なのかも判らないのだが、仮にあったとして、その桜井駅が何処かも実ははっきりとしていない。諸説あるのだ。そのうち最も有力なのが、大原駅という場所。この誌面を読んでいる方がお住まいである摂津国の中にある。現在の島本町であるとされている。


だが、大原駅が何故、桜井駅と呼ばれるのかも判らない。うむ、判らないことだらけだ。桜井の別れのエピソード自体が後世の創作だったとしても、何故このようなありもしない名前にしたのだろうか。桜井といえば、奈良県の桜井が思い付くが、これとも関係はあまりないように思う。不思議でならないのだが、歴史の中に数ある逸話には往々にしてこのようなことがあるものだ。
地の者が大原駅のことをそう呼んでいたのか、それとも後世の誰かがより雅な名に書き換えたのか。真相は判らないが、その名には誰かの、あるいは衆の何かしらの想いのようなものが籠もっているようにも感じる。歴史は勝者が、権力者が書き換えることは間々あるが、そうでなくとも少しずつ人の口を経て、心を経て、意図せず変わっていくものもあるのだろう。
ちなみに楠木正行は桜井の別れから十一年後、父の如く足利尊氏を倒すべく立ち上がる。連戦連勝を重ねるものの最後は四条畷の地で散る。ちなみにこの四条畷というのもその当時は別の呼ばれ方をしており、この戦いがきっかけで市の名前になった。正行は享年二十三とされる。この当時は数え歳だったので、現代では二十二歳だったかもしれない。この短い生涯をどう描くのか。日々、私は彼と語らっている最中である。
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