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TOP > 〈特集〉直木賞作家・今村翔吾さんの連載コラム「吾、翔ける」 > 吾翔けるvol.27 -40歳になって思うこと-
先月、遂に四十歳となった。そう言うと、まだ四十なのかと返ってくることが多い。比較的、表に出る機会が多い作家のため、私の風貌をご存じの方も多いだろう。もう少し歳を重ねていると思っているのではないか。
とはいえ、これでも随分とましになった。元来の老け顔なのだ。年齢よりも歳上に間違われたエピソードは、枚挙に暇がない。
たとえば小学校六年生の時、中学受験のために学校を休んで母親の付き添いで京都に向かった。小学生なのだから、勿論子ども料金である。しかし、改札を出る時に、駅員に大声で呼び止められた。困惑する私に向け、駅員はいい年して何を考えているのだと、全く疑うことなく説教を始める。この態度を腹立たしく思った母親は、私が小学生であることを毅然と主張し、一転して駅員が平謝りすることとなった。 中学三年生の時、スキー合宿の実行委員長を務めた。皆よりも早く起きて、旅館の館内放送で起床や注意事項などを呼び掛ける。一仕事終えた時、旅館の従業員がコーヒーを運んで来て下さった。 大層な気配りだ。しかし、中学生にコーヒーか。私は当時からブラックで飲んでいたが、飲めない人も多いだろうに。その後、その従業員と雑談している中で気付いた。私のことを教師だと勘違いしているのだ。私が学生だと言うと、吃驚して固まっておられたのを覚えている。
高校生になるとさらに拍車が掛かる。私が通っていた中高一貫の学校に制服はなく、私服であった。加えて、髭を生やすことは校則違反でなかったため、高校三年間、は今のように口髭こそ蓄えていなかったが、顎髭はしっかりと生やしていた。ただでさえ歳を上に見られるのだから、最低でも大学生、大抵は社会人に間違われていたものだ。 つまり、これでも随分と実年齢に追いついてきたということである。あと十年もしたならば、年齢より若く見られるようになるのでは──。などと、密かに期待している。 とはいえ、このような言葉もある。 ──四十歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない。 第十六代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーンが残したものだ。これは容姿の美醜云々のことではない。人は四十歳を過ぎた頃から、これまで如何に生きて来たかが顔に現れるようになるということ。つまり、その相貌からその人の生き方が判断されるということである。 まさに私の年齢。ここからは、これまでの、これからの、自身の生き方が表情に現れてくることになるかもしれない。 これまで通り老けて見られても別に構わないが、常に清々しい顔でありたいとは思う。その為には、これまで以上に後悔の無い生き方をしよう。そのような事を考えながら、鏡に写る自身の顔を久しぶりにまじまじと見た。