シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】 第10回 変貌を遂げる高槻センター街
2020.02.26
現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第十回は、高槻市の駅周辺の変化について、中川修一さんにお話をお聞きしました。
歴史案内人
取材協力 中川修一さん。
昭和25年11月6日、新京町商店街で生まれる。㈱丸公代表取締役、高槻まつり会長、たかつき中通り本通り商店街会長、わくわく探検隊顧問
変貌を遂げる高槻センター街
1929年高槻センター街が誕生
明治維新(1868年)後の高槻町(後の高槻市)は戸数わずか7百、人口3千の小さな町だった。住民の半数は農家で、数少ない商人も商売だけでは生活が成り立たず、半農半商が多かったようだ。1928年になると、高槻の中央部に現在の阪急電車の前身である京阪電気軌道の「新京阪線」が開通する。1月に高槻天六間、11月には京都まで全通。
これをきっかけに住宅地の開発が始まって人口が増え、1929年には駅を結ぶ「新京町通り」に商店がぽつぽつと並び始めた。とはいえ、このころはまだ店の数が少なく、商店街といえるものではなかったという。中川さんは、「大阪から商売人が進出して高槻市場を開いたんです。それで、周辺にどんどん商店が増え始めました」と話す。
1931年には、高槻町や芥川町を始めとする5つの町村が合併、人口は2万人まで増加する。さらに、急行電車も停車するようになり、こうした時代背景とともに、後の高槻センター街である「新京町商店街」が繁栄していった。
1973年(昭和48年)ごろの高槻地区商店街(現高槻センター街)。この頃、すでに商店街の雰囲気は現在と同じような印象。
新京町商店街の風景1963年(昭和38年)ごろ。
高槻センター街から発行された「写真で綴る 高槻センター街50年史」。1979年9月発行。
昭和2年頃の中心街のマップ。中川さんの父親、故中川市太郎(元高槻センター街理事長)さんの手書きのマップをもとに作成。
1.国鉄高槻駅(現JR高槻駅)の周辺は田
んぼに囲まれていた。
2.この道は西国街道と高槻城下を結び檜
尾川まで続く幹線道路だった。
3.新京町通が後に「高槻センター街」となる。
4.明治9年に「国鉄高槻駅」として開業。高槻城の石垣を切り崩して、鉄道建設の石材が流用された。
5.1928年(昭和3年)新京阪鉄道(現阪急電鉄)「高槻町駅」として開業。1943年(昭和18年)に「高槻市駅」改称。
高槻市の人口は、昭和30年代に10万人を超え、昭和44年に20万人、昭和48年に30万人に達する。昭和40年代は1年で2万人増のペースで、学校が足りないなどインフラが追いつかないほど急激に人口が増えた。
1954年(昭和29年)2月24日、市営バス開業式の日の花バス。
1963年(昭和38年)、国鉄高槻駅北口、市営バスのりば。
1960年代、デモ行進のようす。
高槻センター街を走り抜けるバス
高槻センター街を走り抜けるバス の西武百貨店(火災後)。
1954年当時、狭いセンター街を市バスと京阪バスが走っていた。この危険な状況は何年も続いたが、やがて商店街の店主たちがアーケードの建設や安全性を求めて立ち上がる。赤いハチマキを巻き、「安心してお買い物できる商店街にしよう」とプラカードを掲げデモ行進を決行。1970年にようやく全面通行禁止になった。
1917年高槻市役所が駅前から移設
当初、高槻市役所や警察署など行政の中心はJRの駅前にあった。しかし、中心地を活性化させるため駅前への百貨店の誘致が始まり、1971年に市役所は現在の桃園町に移設。JR高槻駅の北側には、1973年に西武百貨店がオープンの予定だったが開店の4日前にかさいが発生し1年開店が遅れた。そのころには、高槻センター街では屋根つきのアーケードが完成していた。また、高槻市の人口は、この年に30万人を超えた。そして遅れること5年、1979年にJR高槻駅の南側に松坂屋がオープンした。
1992年阪急効果の開発が完成
元々けやき通りは狭い道で、市役所からセンター街まではバスも通れないほどだった。またみずき通りは、線路沿いに民家や商店が並んでいるだけの道だったという。しかし、1980年から約10年かけて阪急電車が高架化。これに伴い、センター街を短くしてけやき通りを広げるとともに、みずき通りも完成した。みずき通りは元々住宅が立ち並んでいて、道がなかった。
高架工事をするために新たに道を作り線路を 移設し、高架工事を完成そのあとみずき通りにしたという。近くに店を構えていた中川さんは、「市バスの停留所が国道沿いに行ったので、10年間は売り上げが10パーセント落ちたのでよく覚えているんです(笑)」と話す。高架工事は、線路を一時みずき通りに移設し電車を走らせるなど、かなり大掛かりだったそうだ。
1958年(昭和33年)、JR駅前にあった旧市庁舎。
1965年(昭和40年)ごろの阪急高槻
市駅西側踏切(新京町商店街)。
1987年(昭和62年)、阪急高架事業の工事中のようす。
2004年アクトアモーレの完成
芥川商店街とJRで囲まれた三角地帯は、長い間大きな商業施設がなく、木造住宅が密集していた。そこへ、JR駅前を高槻の玄関先にしようと地元住民から声が上がり、再開発事業がスタートする。2002年からロータリーには2階建ての仮設店舗が建設され、入居した店舗の売上げは5倍ほどに上がったそうだ。地元も潤ったことから、地域も納得した上で開発が進み、2006年アクトアモーレが華々しくオープンしたのだった。今後の高槻について、中川さんはこう話す。「50年先の町や人口、職業がどう変化しているのか、全く想像もつきません。ただ、子ども達を地域で育てていくために、これまで商店街の役割だったコミュニケーションをどう担うかが、今後のまちづくりのキーになるのではないでしょうか」。
1970年(昭和45年)に第1回高槻まつりが行われた。高槻市の人口が急激に増加したため、新市民と旧市民の心の調和をとるため、また「ふるさとづくり」を目指して始まった。
1979年(昭和54年)7月1日、グリーンプラザたかつき1・3号館オープン。
昭和50年代の写真。西武百貨店の向かいにアクトアモーレがつくられる。
写真出典:
「写真で綴る 高槻センター街50年史」(一部)
取材を終えて
高槻市の中心部は、JR高槻駅と阪急高槻市駅の両駅を中心に広がる商店街や百貨店、医療機関、大学、また最近では住居系マンションの建設が進むなど、北摂でも指折りの元気な中心市街地ではないでしょうか。この取材を通じ、駅前商店街の発展には、大胆な区画整理などのインフラ整備の重要性を感じることができました。 編集部 尾浴 芳久
記事内の情報は取材当時のものです。記事の公開後に予告なく変更されることがあります。