だが、大原駅が何故、桜井駅と呼ばれるのかも判らない。うむ、判らないことだらけだ。桜井の別れのエピソード自体が後世の創作だったとしても、何故このようなありもしない名前にしたのだろうか。桜井といえば、奈良県の桜井が思い付くが、これとも関係はあまりないように思う。不思議でならないのだが、歴史の中に数ある逸話には往々にしてこのようなことがあるものだ。
地の者が大原駅のことをそう呼んでいたのか、それとも後世の誰かがより雅な名に書き換えたのか。真相は判らないが、その名には誰かの、あるいは衆の何かしらの想いのようなものが籠もっているようにも感じる。歴史は勝者が、権力者が書き換えることは間々あるが、そうでなくとも少しずつ人の口を経て、心を経て、意図せず変わっていくものもあるのだろう。
ちなみに楠木正行は桜井の別れから十一年後、父の如く足利尊氏を倒すべく立ち上がる。連戦連勝を重ねるものの最後は四条畷の地で散る。ちなみにこの四条畷というのもその当時は別の呼ばれ方をしており、この戦いがきっかけで市の名前になった。正行は享年二十三とされる。この当時は数え歳だったので、現代では二十二歳だったかもしれない。この短い生涯をどう描くのか。日々、私は彼と語らっている最中である。