地域情報紙「City Life」が発信する地域密着のニュースサイト
地域から選ぶ
ジャンルから選ぶ
PICK UP
TOP > 〈特集〉直木賞作家・今村翔吾さんの連載コラム「吾、翔ける」 > 吾翔けるvol.13 -何かを卒業した皆さんへの祝辞(後篇)-
前回に続き、卒業生に贈ったスピーチの原稿を載せることにする。
君たちはどのように生きるか。何のために生まれたか。この中に自ら生まれようとして生まれた人はいないでしょう。言い方を変えれば、人は皆、生まれさせられているのです。お父さん、お母さんを選ぶことも、もちろん出来ない。それが生まれるということです。だからこそ、まず生きる目標を決めなくてはならない。それは夢という言葉に置き換えられるものかもしれません。
こう言うと、夢を見つけられないという人がいるかもしれない。それは、夢を宝石のようなキラキラしたものと勘違いしているからだと私は考えます。そのようなものは何処を探したってありません。夢というものは、道端に転がっている石ころのようなものなのです。毎日を懸命に生きている中で、ふっと目に入るものなのです。それを磨き上げてたった一つの宝石にするのが君たちなのです。 それでも見つけられないかもしれません。そんな時は友人の顔を覗き込んでみるといいかもしれません。その瞳に転がった石ころが映っていることもあります。そのような友人は「出来る」ものでも、「巡り合う」ものでもありません。「つくる」ものなのです。小学校生活六年の中で、それを君たちは学んだのではないでしょうか。 そして、友人から優しさも学んだことでしょう。人間としての優しさ。世の中にこれほど強いものはありません。これに勝てるものはないのです。とても臭く聴こえるかもしれません。本当に?と疑うかもしれません。しかし、それは紛れもない真実です。
今から26年前。1997年の3月、私も君たちと同じ場所に立っていました。卒業式の後、未だ片付けていなかったコタツに足を突っ込み、ぼうっと天井を眺めながら、 ──これからどんな日々が来るのだろう。 と、考えていたことを今もはっきりと覚えています。蜜柑も食べていました。ポッキーも食べていました。何気ないことです。それなのに覚えていたのは、人生で初めて卒業というものに直面した時だったからかもしれません。 それから何度も私は卒業を経験しました。しかし、ある時に思ったのです。卒業とは何であろうかと。漢字から言うと、「業」には学問という意味があり、「卒」には終えるという意味があります。つまり学問を終えるということです。君たちの場合、小学校過程の学業を終えるということでしょう。 では、どのようになれば卒業なのか。これを考えたことのある人は少ないのではないでしょうか。高校や大学では、学業が疎かであれば、あるいは出席日数が足りなければ卒業することは出来ません。しかし、中学校、そして小学校ではその限りではない。 ならば卒業とは、卒業式の日を迎えるということなのでしょうか。それともそこで卒業証書を受け取ることなのでしょうか。いや、違います。この日、この時、君たちは何から卒業するのか。何を止(や)め、何を始めるのか。それは自分の嫌いなところかもしれません。自分の弱いところかもしれません。君たちそれぞれの卒業があるはずなのです。そして、また新たな道を進み出すのです。 もう一度言います。君たちは今日、何を卒業するのか。その答えは君たち一人一人の胸の中に、皆と過ごした六年間の日々の中にあるはずです。皆さん、改めて卒業おめでとうございます。