吾翔けるvol.15 -「歴史小説は難しい」と思われる理由-

歴史小説は難しいと思っている方が多いのは、作中の用語に馴染みがないこともあるだろう。例えば「胴丸（どうまる）」といっても、全く知らない人にとっては皆目想像も付かない。私は判らないことを前提に足軽が腹に巻く鎧などと、ざくっと説明はするものの、逆に知っている人からすれば、まどろっこしい一文になってしまう。この辺りの塩梅が難しい。

人名などもそうだ。これは織田信長を例にとってみる。会話以外の文、いわゆる「地の文」などというが、ここで「信長」と書くのは問題ない。しかし、会話文の中で「信長様は……」などとするのは正しくない。信長というのは諱（いみな）と呼ばれるもので、目下の者は絶対に口にしてはならないし、同格の者でも失礼に当たる。目上からや、敵からは呼ばれることはあるものの、これも実際は多く無かったようだ。

では何と呼ばせればよいか。家臣たちは「殿」「御屋形様」「上様」などでよいが、それ以外はどうか。まず呼称として最も用いられるのが官職名である。

羽柴秀吉ならば筑前守（ちくぜんのかみ）、石田三成ならば治部少輔（じぶのしょう）、直江兼続ならば山城守（やましろのかみ）、吉良義央ならば上野介（こうずけのすけ）といえば、ぴんと来る方も多いだろう。

信長の場合、多くの人は上総介（かずさのすけ）を想像するのではないか。それは間違ってはない。だがここに落とし穴がある。官職は時代と共に変わるのである。しかも正式に朝廷から任命されたもののほかに、自分で勝手に僭称することもあるから何ともややこしい。

信長の場合、上総介の他に有名なものを一つ、二つ挙げるとすれば、弾正忠（だんじょうのじょう）や右大臣（うだいじん）などがある。つまり他者が信長を呼ぶ時は「上総介め……」などとなるのだ。

だが残念ながら、まだ落とし穴はある。それぞれには略称、通称のようなものがあるのだ。例えば右大臣ならば右府（うふ）。内大臣（ないだいじん）ならば内府（ないふ）。石田三成が徳川家康のことを「内府の勝手を許せぬ」などと言っているあれだ。

この通称、全く聞き覚えのないものから、あっと思うものもある。例えば現在の大阪府南部はかつて和泉国（いずみのくに）と呼ばれていた。これを通称で「泉州（せんしゅう）」などと呼ぶのだが、それがその国司である和泉守に対しても同様に呼ぶ。つまり「泉州とはしばらく会っていない」などと使うのである。

ちなみに官職である「〇〇守」は凡そこれに変換出来る。真田幸村の父、真田安房守昌幸の通称は「房州」となる訳だ。紀伊国の紀州、信濃国の信州などは馴染みが深いだろう。

さらにここに『唐名（とうみょう）』というものがある。中国王朝での官職を、日本の官職に当て嵌めたものだ。武田信玄の弟、武田信繁の官職は左馬之助（さまのすけ）。これの唐名は典厩（てんきゅう）。これを台詞にしてみると、「典厩様の軍に続け！」などとなる。唐名で有名なのは関ケ原の戦いで裏切った小早川秀秋の執金吾（しつきんご）。これは左衛門督（さえもんのかみ）の唐名だ。関ケ原を描いた映画などで三成が「金吾！　裏切ったか！」と、叫ぶシーンがあったりするがこういう訳だ。唐名が地名なった例もある。脇坂安治という人がいる。彼の官職は中務少輔（なかつかさのしょうゆう）。唐名は中書（ちゅうしょ）。彼が屋敷を構えていた場所が京都の中書島である。

と、結果として歴史小説がめちゃくちゃ難しいもののように語ってしまったが、実際はそうではない。プロ作家はこのあたりを、歴史に詳しくない人のためにも、小説の中で自然に説明する。逆説的に言えば、現代の歴史小説において、これが上手く出来ないと頭角を現しにくい。私はそう確信して努めるようにしている。