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TOP > 〈特集〉直木賞作家・今村翔吾さんの連載コラム「吾、翔ける」 > 吾翔けるvol.30 -今村家のこと-
「今村翔吾」は筆名ではなく本名である。デビューが唐突で筆名を考える時間が半日しかなかったこと、夢を叶えると約束した教え子たちが書店でも見ても判るように、そのようなことが理由である。が、今回はその本名について触れる。
私は、今村姓になるはずではなかった。厳密に言えば、私たちは、であろうか。本来の姓は中西。父方の祖父が幼少の頃、今村家の養子に入ったのである。
今村家は代々、医者であったらしい。医術に纏(まつ)わる道具が多く残っており、また帯刀も許されたのか、それとも勝手に秘蔵したのか、刀剣も幾振りが所蔵されていた。 中西家もまたそれなりに裕福だったらしい。が、祖父が生まれた頃に没落したと聞く。事業で騙されて土地を失ったとか。身を持ち崩しただけではない。その頃に不幸が続いた。記録を見るに、祖父が生まれて十日以内に祖父の祖母が、つまり私にとっての高祖母が病で他界。さらに一月以内に祖父の母が亡くなった。苦しい生活を送っていたようで、産後の肥立ちが悪い中ですぐに働いたことが原因だったと聞く。 さらにそこから三年ほどの間に、祖父は兄一人、姉二人を失っている。どうも流行り病があったらしく、この時期に地域で多くの方が亡くなったようだ。祖父とその父は親子二人きりになった訳である。ちなみに、私は両親とあまり似ておらず、この曾祖父と顔立ちが似ているらしい。僅かに残っている写真を見たことがあるが、目元や鼻あたりは確かにそうかもしれない。 昭和五年頃の話だ。男が幼子一人を育てていくのは難しかっただろう。男子を欲する家があり、曾祖父は祖父を養子に出した。これが今村の家であった。今村家は凡そよくしてくれたらしい。だから祖父はすくすくと育った。先の戦争の末期には特攻隊に配属されるも生き残った。だからこそ、今、私がここにいる訳である。
私がまだ幼い頃、このような境遇を祖父から聞かされた時、私はどういった訳か、今村家の先祖たちが、 ──おじいちゃんを迎えて良かった。 と、思ってくれていたらいいなと考えたことを覚えている。その感情は未だに僅かなりとも残っており、時代錯誤なれども、私も家名を辱めぬように、先祖に誇って貰えるように、という思いもあったりする。主に歴史を材にとった小説を書き、多くの家系というものを見る機会が多いことも影響しているのかもしれない。 と、ここまで歴史作家が、我が家の歴史を語ってきた。何故、今このようなことを書こうと思ったのか。それは一族全員が間もなく、先祖伝来の地を出ることが決まったからだ。武家風な言い方をすれば、本貫地を去るということになる。 やはり歴史に触れ続けているからだろうか。これに対しては、先祖に些か申し訳ない想いがある。とはいえ、このような時代である。仕方がない。先祖もきっと我々が過ごしやすいことを望んでくれていると信じたい。 別に大層な家ではない。どこにでもある何の変哲もない家だ。しかし、その家の数だけ、歴史があるのも確かである。私がものを書く時、常にそのことが頭の片隅にある。