地域情報紙「City Life」が発信する地域密着のニュースサイト

シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第3回 隠れキリシタンの里-1919年発見-

2020.01.06

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第3回は、隠れキリシタンの里について、中谷早苗さんにお話をお聞きしました。

歴史案内人

取材協力 中谷早苗さん 隠れキリシタンの末裔の中谷早苗さん。現在、茨木市立キリシタン遺物史料館に勤めている。訪れた人に、教科書にも載っていない興味深いキリシタンの歴史を話し聞かせている。

フランシスコ・ザビエル来日
イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが日本にやって来たのは1549年、戦国時代の只中だった。
鹿児島に入港し、初めてキリスト教を伝えたザビエルは、京の都を目指して平戸へ、山口へと進み宣教活動を続けた。戦乱で荒廃した京の町では布教を断念したものの、各地で多くの人がキリスト教に改宗する。しかしキリスト教の伝来は、やがて信徒の弾圧へとつながっていく。1637年には島原の乱が勃発。これは、キリシタン弾圧に対する大規模な農民一揆である。反乱軍のほとんどは幕府軍によって根絶されたが、残されたわずかな信徒はキリスト教の信仰を捨てず、密かにその教えと聖具を代々伝え残した。全国でも聖具を秘蔵していた信徒がいたと見られ、各地で遺物が発見されている。

東家が所持するマリア十五玄義図。 イエスズ会創立者であるイグチナウス・ロヨラが左に、フランシスコ・ザビエルが右に描かれていて、その周りには喜びの玄義が左に、苦しみの玄義が上に、栄光の玄義が右に、それぞれ描かれている。

高槻城主、高山右近からの影響
摂津国三島郡(現在の豊能町)の生まれである高山右近は、熱心な「キリシタン大名」として知られる。1573年に高槻城主となり、1578年には現在の茨木市下音羽を織田信長から領地として与えられた。茨木市立キリシタン遺物史料館の中谷さんによると、人徳が厚く影響力の大きかった右近の領内では、住民の7割以上がキリスト教に改宗し、三島区はキリスト教の一大中心地になったという。
ところが信長の死後、豊臣秀吉、次いで徳川家康もキリスト教の布教と信仰を禁止。右近は1614年にフィリピンのマニラへ追放され、翌年に病のため息絶えた。島原の乱以降はキリシタンの取り締まりがいっそう厳しくなり、多くの信徒が表向きは仏教に改宗させられた。しかし幕末の1865年、長崎の教会に信徒が訪れたことから、密かにキリスト教信仰を続けていた潜伏キリシタンの存在が初めて明らかになった。「明治政府が禁教令を解いた後も、信徒の間には弾圧への恐怖が残っていました。明治13年に大阪に教会ができると、調査のため神父が茨木に訪れたのですが、その時もキリシタンのことはひた隠して明かさなかったそうです」と中谷さんは話す。

「隠れキリシタンの里」として知られている茨木市北部の千提寺や忍頂寺などでは、さまざまな貴重な史料や墓碑などが発見され、この地でのキリスト教の信仰にまつわる事実が明らかとなった。

高槻城の城主となった高山右近は、城内に教会堂や、宣教師たちの住院、神学校も作るなどして熱心に布教活動に励み、身分ある家臣たちもキリシタンとなっていった。

隠れキリシタンの発見
1919年、キリシタン研究家の藤波大超氏が、千提寺に隠れキリシタンの里があるという噂を聞きつけ、調査に乗り出した。同地区の名家、東家の主だった東藤次郎氏は最初、そんなものはないと相手にしなかった。しかし藤波氏が何度も頼みこむうちにとうとう根負けして、寺山の庭にあった二支十字が刻まれた墓碑を見せてくれたという。さらに自宅に秘蔵していた「あけずの櫃(ひつ)」も公開された。
「代々世継ぎだけに伝えられてきたもので、家族ですらその存在を知らなかったようです。東家のお祖母さんのイマさんは、〞それは見せてくれるな。みせたらお縄にかかる〞と、櫃を開けることを最後まで反対していたそうです」と中谷さん。
櫃の中には、有名な聖フランシスコ・ザビエル像をはじめとする数々の貴重な聖画や聖具が入っていた。さらに縁続きの中谷家でも遺物が発見され、この地の300年にわたる信仰が明らかになった。江戸時代、役人に踏み絵を強要されたときは、イマさんはその手前でわざと転び、踏まなくても役人が許してくれたというエピソードも残っている。その後、東イマさんと中谷ミワさん、中谷イトさんという両家の3人のおばあさんによって、「オラショ」と呼ばれるアヴェマリアの祈祷文も公開された。3人は、仏教徒を装うために行っていた仏式の葬式の裏で、お経を打ち消すようにオラショを唱えていたという。この発表は世界中に大きな反響を呼び、後にはローマ教皇使節までがこの地を訪れたそうだ。

キリシタンであることを隠さざるを得なかったため、「あけずの櫃(ひつ)」に聖画や聖具を入れて保管していた。その櫃の存在を家族でさえも知らない人がいたほど、秘蔵とされていた。

大正8年にキリシタンの遺跡発見の先駆けとなった墓碑。通称寺山と呼ばれるところで見つかる。碑には二支十字と「上野マリヤ」の名前が刻まれていて、光背型の形をしている。

銅版によって銅版印刷されたもので、8枚からなる7つの祈願シリーズのうちの天使讃仰図の1枚「品級」。天使の周囲にはラテン語の祈祷文などが書かれている。大神家で発見された。

聖母マリアによって示されたお告げとイメージをもとにデザインし、金細工師のアドリアン・ヴァシェットが製作したメダルであるメダイも複数発見された。

茨木市立キリシタン遺物史料館
キリシタン聖具を秘蔵していた東家、中谷家は当初、これらの貴重な史料を自宅で公開していた。しかし観光客や研究者が多く訪れたことから、より広く公開するために茨木市が同館を建設、1987年9月に開館した。館内にはあけずの櫃や中に入っていた聖具のほか、キリシタン遺物発見のきっかけとなった墓碑も陳列されている。教科書で見覚えのある聖フランシスコ・ザビエル像の原本も東家が所持していたもの。現在、神戸市立博物館に所蔵されており、史料館にはレプリカが飾られている。

年表
1549年8月、「フランシスコ・ザビエル」鹿児島に入港、布教をはじめる。
1551年11月、「フランシスコ・ザビエル」日本から退去。
1564年高山右近12歳、洗礼を受け「ジュスト」と命名させる。
1573年高山右近21歳、高槻城主となる。
1587年豊臣秀吉がキリシタン宗の布教を禁止する。
1612年徳川幕府が「禁教令」を発布する。
1614年高山右近61歳、マニラへ追放される。
1637年天草四郎時貞、禁教令に反対して、幕府と大激戦。以後、キリシタン宗の信者たちは、死罪・流罪・一家一類断絶等の厳科に処せられた。このため、信者達は、隠れながら信仰を続けた。
1919年2月、キリシタン研究家、藤波大超氏によって、茨木市千提寺で隠れキリシタンの墓碑が発見され、その後、続々と遺物が発見されはじめた。

ローマ教皇使節一行が千提寺、中谷家訪問。中谷イトさんは「オラショ」と呼ばれるアヴェマリアの祈祷文も公開した。

最後の隠れキリシタンと呼ばれた、左から 中谷イトさん 中谷ミワさん 東イマさん

取材を終えて
東家が所持していた聖具に、フランシスコ・ザビエルの聖画がありました。その聖画は教科書などによく使われている見覚えのあるものでした。まさかあの絵が茨木市の隠れキリシタンの里に秘蔵されていたとは、恥ずかしながら初めて知りました。現在は神戸市立博物館所蔵となっているのが残念ですが、昭和10年、この聖画を池長孟氏の熱望により、その手に委ねたストーリーもまたロマンを感じました。詳しくは遺物史料館を訪ねてください。
編集部 尾浴 芳久

茨木市立 キリシタン遺物史料館

住所
茨木市千提寺262
電話番号
072-649-3443
営業時間
9時半~17時 当時の信仰の証拠となる隠れキリシタンの貴重な遺物が展示されている。入場無料。
定休日
休館日/火曜日(その日が祝日の場合は開館)、 祝日の翌日(その日が日曜日の場合は開館)、 12月29日~翌年1月3日

記事内の情報は取材当時のものです。記事の公開後に予告なく変更されることがあります。