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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第4回 アサヒビール創業の地 吹田-1891年完成-

2020.01.10

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第4回は、アサヒビールの創業について、石崎光一さんにお話をお聞きしました。

歴史案内人

取材協力 石崎 光一さん 昭和59年朝日麦酒㈱に入社。仙台 支店、広島支店、名古屋支店、大阪支社等で営業・業務部門を担当。直近では神戸統括支社・業務部部長。 平成25年9月より㈱アサヒビールコミュニケーションズ吹田支店長に就任。石嵜喜兵衛の曾孫。

大阪麦酒会社の設立
今から126年前の1889年11月、アサヒビールの前身である大阪麦酒会社が創立された。洋酒の流行により日本酒の需要が急減する一方で、輸入ビールの消費量が急速に増えていた当時。国内にも多くの醸造家が現れたが、その品質は本場のビールとは比べ物にならなかった。こうした中で、輸入を防ぎ国産酒を振興しようと、堺で酒造業を営む鳥井駒吉を中心に、日本酒の蔵元である石嵜喜兵衛と宅徳平、さらに関西財界の重鎮松本重太郎や外山脩造が加わった5人の有力者が発起人となった。暗転しつつある経済状況下で未知の技術という困難を切り開き、株式資本のもと
本場ドイツの技術を導入した日本で初めての本格的な国産ビール醸造事業がスタート。それは、先人達の先見性とパイオニア精神による画期的な挑戦だった。

第4期増設工事が進む吹田村醸造所(1897年、明治30年)。同じ地とは考えられない田園風景が広がる。

石嵜喜兵衛 (1854~1928年) 灘の銘酒「澤之鶴」の蔵元。いち早く商標登録をし東京・大阪の市場に進出した。大阪麦酒会社の取締役に就任。

宅徳平 (1848~1932年) 堺の銘酒「澤龜」の蔵元。大阪麦酒会社の取締役に就任。大阪貯蓄銀行、南海鉄道などの重役もかねていた。

鳥井駒吉 (1853~1909年) 家業である米穀商を継ぎ、「春駒」という銘柄で酒造業を開始。大阪麦酒会社初代社長。南海鉄道の創始者の一人でもある。

なぜ吹田だったのか
吹田は古くから〞水どころ〞とされ、千里丘丘陵の地下を伝って流れ出す清らかな湧き水が豊富だった。アサヒビール吹田工場の石崎さんは、「阪急吹田駅の近くにある泉殿宮の井戸水をミュンヘンに送って検査をしたところ、ビール醸造に適した良水だというお墨付きをもらったそうです」と話してくれた。また、神崎川に面した吹田からは川船が出航し、水運に恵まれていたうえ、1889年には国鉄の東海道線が開通したことで、大阪や京都への絶好の輸送手段となった。開設当時、堺の有力出資者に「なぜ地元に工場をつくらなかったのか」と尋ねられた鳥井駒吉は、こう答えたという。「水質や鉄道を考えたからです。アサヒビールは堺だけのものではありません。日本のビールを目指しているのです」

泉殿霊泉(吹田市西の庄町 泉殿宮)この水をミュンヘンに送り良水との検査結果を得ている。

吹田工場の自噴井戸のようす(1922年、大正11年)

吹田村醸造所の完成
大阪麦酒会社に本場ドイツの技術を伝えたのは、薬学の道を進んでいた生田秀(ひいず)だった。生田は、同社からの依頼を受けて1888年から約1 年間留学し、日本人で初めてドイツの醸造学校を卒業した。帰国後は生田指揮のもと、約7万円の工費を投じて工場の建設を開始。設備には約9万円を費して最新鋭の醸造機器や製氷機を導入し、年間120万本を生産できる近代的ビールの醸造体制を整えた。
そして1 8 9 1 年初秋、地上4階地下2階の赤レンガ造りの工場が誕生。当時の吹田村の人口は約3500人。
田園ばかりが広がる風景の中で、西洋館建築の醸造所はひときわ異彩を放っていたという。

「アサヒビール」誕生の祝賀写真(1892年、明治25年)

完成した吹田村醸造所を描いた広告物。

吹田工場ゲストハウスに現存する醸造所の煉瓦造の壁。

当時の広告物

明治25年5月17日付の「大阪朝日新聞」に掲載された紙面1ページの広告。醸造所の背景には蒸気機関車や淡路島らしき島影までが描きこまれている。

新発売当時の中井芳瀧作の「引札」 (1892年、明治25年)

アサヒビールの誕生
わずか1年という短期間の留学で、生田はビール醸造の知識と技術を会得した。また、ビールの醸造工程がひと目で分かるようにと、製造設備の模型をつくらせて日本に持ち帰った。
石崎さんによると、今でもゲストハウスに残るその模型は、本物のビールを製造できるほど精巧に作られているという。
さらに幅広い人脈づくりにも努め、醸造現場には2人のドイツ人技師を採用。本場の技術と機器、発酵方法が吹田で再現された。そして1891年12月末、33石(約6kl)の仕込みを行いアサヒビールの製造が開始。生田の醸造にかける強い意志がとうとう結実した。

 

生田秀(ひいず)(1857~1906年)1890年に大阪麦酒の支配人に就任

吹田工場ゲストハウスに現存するビール醸造設備の模型

アサヒビールの販売
低温の貯酒室で静かに熟成されたビールは、1892年5月、ついに完成のときを迎える。コルクで栓が打たれたびんに「アサヒ」のラベルが施され、松材の木箱に両側24本ずつわらで包まれて出荷された。「5月16日付の大阪毎日新聞に発売広告が掲載されました。一面を使った広告は、当時としては珍しいものでした」と石崎さん。発売時の挨拶状には、優れた品質を宣伝する一方で「輸入防禦国産振興」という旨が強調され、設立当初からの変わらぬ姿勢がうかがえる。実際に、「アサヒビール」は発売と同時に品薄になるほどの人気を博し、同年10月の大阪府工産物品評会では、関西圏の嗜好にかなっているとの理由から二等銀牌を獲得した。ちなみに、「アサヒビール」という名の由来は「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日のごとき将来性、発展性を願ったもの」と言われており、発売以降1世紀にわたり、波間に昇る朝日のマークがラベルを飾っていた。

創業期のビール瓶

大阪麦酒時代の出荷風景(横堀壱丁目尼ヶ崎橋東詰にあった倉庫)

大正時代の吹田工場の荷物倉庫。吹田駅から貨車の引き込み線が工場内に引かれている。

取材を終えて
取材時に、アサヒビール吹田工場の向かいにある「先人の碑・迎賓館」に案内していただきました。先輩役員や社員だけでなく、取引先含めた関係業界の方までのご芳名録とご芳名板が保管されています。迎賓館は参拝者が利用できるよう休むことなく開館しているようです。命日には人数分の献花もされています。先人を大切にする素晴らしい会社だと思いました。

「先人の碑」。二本の柱は関係業界と社内諸先輩を象徴し、柱に支えられた翼はグループ全体の社業の発展を表現。

編集部 尾浴 芳久

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