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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第5回 北摂の空襲 -1945年-

2020.01.18

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第5回は戦後70年の節目を迎える8月にあわせ、北摂の戦災の歴史を振り返る特集です。

歴史案内人

取材協力 山一地区公民館館長 桑原 喜幸さん 紙芝居で吹田市の戦災を子どもたちに伝えるため、戦争被災者にも取材を行う。

吹田市立平和祈念資料館戦時中の国民生活や軍隊に関する現物資料、写真パネル等の常設展のほか、企画展も随時開催。

記憶を伝える
吹田市の山一地区公民館では一昨年から、自分たちが住む地の歴史を語り継ごうと、旧山田村の資料や生の声を集め「山田を学ぶ戦争体験集」として記録する活動を始めた。「戦後70年を迎えて、戦争を実際に体験した方からお話を聞く機会がどんどん減ってきています。今のうちに何らかの形で残したいと思い、子ども達にも伝わりやすい紙芝居にまとめることにしました」と館長の桑原さん。第一集には、山田東にある「宇治書店」のご主人、宇治粂治(うじくめじ)さんの体験を記した。現在の山田市場に加藤金属という軍需工場があった。当初は大砲の弾を作っていたが、昭和20年頃には金属が手に入らなくなり、ついには木の弾を作るように。品質検査に来る海軍将校を少ない食糧と酒で接待し、合格にしてもらっていたという。7月9日には工場が空襲にあい、戦闘機からの機銃掃射によって、宇治さんの目の前で女子工員が命を落とした。次の第二集では、戦争から帰った復員兵を家族が迎える写真をひもとき、戦後の生活に苦しむ人々の姿を描いている。この紙芝居は、公民館の催しなどで戦争を知らない世代の大人や子どもに向けて語られている。

宇治さんの体験を記した紙芝居。辛い記憶を胸の中にしまっていたため、日頃から親しむ宇治書店のご主人がそんな悲惨な戦争体験をしていたことは、地域の人も家族も、この紙芝居を見るまで知らなかったという。

戦争は罪のない人々を不幸にする
吹田に住む坪内さんは、自らの戦争体験を吹田市内の小学校で語り伝えている。戦争当時は中学一年生。授業中に空襲警報が鳴り響き、生徒たちは防空壕に入り無事だったものの、校舎は焼夷弾に打ち抜かれ焼け落ちた。「歩いているところを見つかったら、戦闘機が急降下して襲ってきます。本当に怖かった。あんな馬鹿な戦争は二度としてはいけません」。その実感のこもった話に、小学生も真剣に聞き入るのだそう。

当時、池田市で被災した坪内さん

1トン爆弾の不発弾処理作業
1978年、朝日町で1トン爆弾の不発弾処理が行われた。1945年6月26日、B29によって吹田駅周辺に投下されたものと推測されている。不発弾処理は万一に備えて半径300メートル以内の約1500世帯の住民に避難させ、東海道線も正午から約40分間不通となり、10,000人以上の足に影響した。1トン爆弾の破片は、吹田市立平和祈念資料館に保管されている。


地下弾薬庫
1993年、山田高校の生徒らの調査によって、旧山田村周辺の地下に弾薬庫が作られていたことが発表された。戦後、その地は立ち入り禁止に。そこに田んぼを持っていた人々は、理由も知らされず生活の糧を奪われ苦労したそうだ。その後半年の間、辺りにドンッドンッと恐ろしい音が鳴り響くことがあった。家はガタガタと揺れ障子が震える。それが弾薬の処理作業の音だと住民達が知ったのは、戦後何十年もたってからだったそうだ。

吹田市立平和祈念資料館に保管されている弾薬箱

夕やけの思い出
~坪内さんが小学生で~語り伝える原稿より~
(一部省略)
昭和二十年の四月に、僕は中学校に入学しました。六月にはいると、一日、三日、五日と一日おきに大阪が「くうしゅう」をうけて、あちらこちらで町がもえつづけていました。「くうしゅう」の後にはいつも黒いけむりが空をおおい、まひるの太陽も黄色くかすんで、やがて大つぶの黒い雨がはげしく降るのです。まるで町中が泣いているように思われました。六月七日は朝からよいお天気でした。学校のじゅぎょうが始まってしばらくしたころ、その日も「けいかいけいほう(警戒警報)」のサイレンが町にひびきわたると、じゅぎょうを止めて全員が大急ぎで「ぼうくうごう(防空壕)」にひなんします。やがて「くうしゅうけいほう(空襲警報)」が出るころには、アメリカのばくげき機が僕たちのあたまの上をゆうゆうと飛んでゆきます。その時でした。「中学校がやられたー。僕らの学校がもえている。」それを聞いてみんな、あわてて「ぼうくうごう」を飛び出しました。アメリカのばくげき機から落とされた「焼夷弾」が僕たちの学校の上に何百発も落ちて、校舎の屋根をぶちぬいて、屋根うらで火をふいたのです。みんな必死になってバケツで水をはこび、もえている校舎にかけました。先生が「大事なものをはこび出せ」とさけんで、頭から水をかぶって、もえている校舎の中へとびこんで行かれました。まだくすぶり続ける校舎を見ながら、運動場にあつまった先生も生徒も肩をだきあって、くやしなみだを流していました。空を見上げると、太陽が西の山にしずもうとしていました。雲一つない西の空は、夕やけでまっかにそまっていました。それいらい、まっかな夕やけ空を見ると、いつもあの時のことが思い出されて、おじいさんはなみだがこぼれてくるのです。いまおじいさんのすんでいる家からは、遠くに山が見えます。そしてきょうも太陽がその山にしずみ、うつくしい夕やけが空をまっかにそめていました。

■吹田市における戦災の状況
計11回の空襲のうち、最も被害が大きかったのは昭和20年6月7日の最初
の空襲だった。吹田操車場周辺や岸部・江坂の工場へ小型爆弾や焼夷弾が
投下され、28名が死亡、35戸が全壊。同月26日の空襲では、吹田駅周辺に1
トン爆弾が投下され、不発弾として30年以上後の昭和53年に発見された。そ
の処理は、住民を避難させ東海道線を一時不通にするなど、市内外に多大な
影響を及ぼしたという。また、空襲による延焼を防ぐため、密集した建物の一部
を壊す「建物疎開」が旭町商店街などで実施された。終戦した翌年には復興が
始まったものの、吹田市と商店街の交渉が難航し、決着には十数年を要した。

■豊中市における戦災の状況
昭和12年、工業が盛んだった庄内地域では、機械器具工場や化学工場が軍
需用に転用され始めた。昭和19年には「学徒勤労令」が発令され、豊中中学や
豊中高等女学校などで学徒隊を結成。多くの学生が工場の労働に動員された
が、昭和20年6月7日の空襲で焼夷弾や機銃の攻撃を受け、現在の豊中高校
や桜塚高校の生徒も死傷した。7月30日の空襲では、敵の一機が撃墜され、岡
町地区に米飛行士が落下傘で降下するという事件もあったという。これら計6回
の空襲で、住宅地域だった本町や小曽根なども大きな被害を受け、死者は計
575人に。大阪府では大阪市、堺市に次いで3番目に大きい被害となった。

■高槻市における戦災の状況
高槻市の成合地区では、昭和19年に地下軍需工場の建設計画が極秘裏
に立てられ、約3500人がトンネルを掘る作業に投入された。しかし、完工されな
いまま敗戦を迎え、トンネルは現在もそのまま残されている。空襲が激しくなると、
高槻市は大阪市からの罹災者を受け入れ、寺院や学校、料理屋などに約
8,200人を収容できる保護所を開設。戦後も疎開者の数は増え続け、昭和20
年12月末には1240世帯にも達した。空襲により5人の死者が出たものの、他
の市に比べて犠牲の少なかった高槻市では、市民によって戦災者への募金や
救援物資運動が熱心に展開されていたようだ。
「国内各都市の戦災の状況」(総務省)
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sesai/situation/state/index.html を加工して作成

取材を終えて
吹田市立平和祈念資料館で「吹田空襲の記録」という、昭和54年に出版された冊子を見つけました。中学生と先生で、吹田市の戦争被災された方に一件ずつ飛び込みで取材し、そこから被災状況をまとめられている貴重な資料です。生々しい空襲の状況が綴られ、当時の取材した中学生の感想もまた貴重な声です。

1945年小学6年生の平均身長、男子130cm、女子130cm。現在より約15cmも低く、当時の食糧難がうかがえる。

編集部 尾浴 芳久

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記事内の情報は取材当時のものです。記事の公開後に予告なく変更されることがあります。