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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】 第6回 茨木城と城下町の復元

2020.02.04

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
今回は茨木城と城下町を研究する、豊田裕章さんにお話をお聞きしました。

歴史案内人

取材協力 豊田裕章さん 京都大学人文科学研究所共同研究員茨木城と城下町については、茨木市や自治体など、地元住民の協力のもと復元に取組む。

茨木城の遺跡‐2006年‐
2006年5月の発掘調査で、阪急茨木市駅西側の市街地にある茨木遺跡から、安土桃山〜江戸時代初期のものと見られる建具などが多数発掘された。障子や瓦、細工が施された「おさ欄間」などがほぼ原型をとどめた状態で埋まっていたという。茨木市は、調査地点が城下町の材木・木製品を扱う商家が集まる場所だったと推定。格式高い建具であることから、裕福な商家の書院造りの建物で使われていたものと見ていた。一方豊田さんは、調査地点について2002年ぐらいから茨木城内の三の丸的な区域の堀と指摘。建具は武家屋敷も含めて茨木城に関連するものと推測している。他にも、当時瓦を使っていたのは、商家ではなく寺院や城に関連する建物だという指摘もある。茨木城は15世紀頃に建てられ、大阪冬の陣の直後から江戸時代初期にかけて取り壊されたが、織田信長や豊臣秀吉も訪れたという歴史のある城。400年以上の時を超え現代に姿を見せた建具は、歴史をひもとく貴重な資料として研究者の注目を集めた。

ほぼ原型を保った形で、茨木遺跡で発掘された障子。桟が太いことから、商家ではなく武家屋敷の書院のものである可能性が高いという指摘もある。これらは江戸時代、廃城の際に捨てられ、埋まったものと見られている。

茨木城の正確な城郭は明らかになっていないが、江戸時代の地図や文書、明治時代の地名などから、「本丸」や天守台の場所、惣構えの跡など全体像が推定されている。豊田さんは模型を作り、茨木城・城下町の復元に取り組んでいる。

今も残る城下町の跡
江戸時代に大幅な再編成がされなかったため、阪急茨木市駅西側の商店街やバス通りは、茨木城の跡や城下町の町並みを今でも受け継いでいる。商店街の通りが戦国時代のメインストリートを踏襲する道だったり、住宅地の中にある水路がもとは城の堀だったり。なにげない日常の中に貴重な歴史遺産が残る。地域住民は、この財産を守り残そうと、茨木神社や公民館などを中心に研究や講演会など様々な活動を行っている。豊田さんは「茨木市は、商業のにぎわいもありながらはるかな時代への時間旅行もできる上質な観光地です。大事にしていきたいですね」と話してくれた。

りそな銀行茨木支店のウインドウディスプレイで復元模型を見ることができる。

茨木城主「中川清秀」
茨木城が惣構えをもつ城下町に整備されたのは、中川清秀が城主だったころと考えられている。清秀は摂津国で生まれ、1570年代に城主となった。非常に有能な武将で、豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎の合戦」など、数々の戦で活躍。しかし1583年、「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で秀吉方につき、奮闘するも戦死した。この時遺髪が持ち帰られ、当時茨木神社の北側にあった梅林寺に葬られたとされる。1650年の茨木川の決壊によって寺が流失し、墓は遺髪もろとも流されたと思われていたが、45年ほど前に墓石の一部が公園の建設工事の際に発見され、片桐町に再建された梅林寺の墓地に現在もまつられている。また、梅林寺の瓦の一枚一枚には中川家の家紋と同じ「抱き柏」が刻まれており、清秀が梅林寺の最大の寄進者だったことがうかがえる。梅林寺には、清秀の肖像画や秀吉が清秀に送ったという「秀吉書簡」が寺宝として今も残されている。書簡の日付は、1582年に起きた本能寺の変の3日後の6月5日。秀吉は明智を討つために備中から京へ戻る道中、いわゆる「中国大返し」の途中でこれを書いたと思われる。この中で秀吉は、織田信長は親子ともに無事だと嘘を書いている。これは、清秀を明智方につかせず、自分の味方に引き込むための秀吉の情報戦略だった。豊田さんは、「この時もし清秀が明智方について、長旅で疲れた秀吉を急襲していたら、歴史の流れが大きく変わっていたかもしれません」と話す。

梅林寺に保管される中川清秀の肖像画。 ※特別に許可を得て公開していただいた。

通常非公開だが、今回は特別に許可を得て取材。梅林寺では寺宝を守りその歴史を語り継いでいる。今年、中川清秀の墓石を五輪塔の一部として再建した。

寺宝の一つとして梅林寺に残る秀吉書簡。 同様の手紙はもう一通送られているが、現存するのはこれだけという。文中には、本能寺の変では部下の福富平左衛門も三度にわたって活躍した、という嘘も書かれている。

発掘・発見episode

1650年の洪水で流れたと思われていた中川清秀の墓石の一部は梅林寺の墓地にまつられている。45年ほど前、六軒町の児童公園を整備した際に発見された。清秀が戦死した年「天正11年」の文字が今も判別できる。

取材を終えて
いたる所に見られる城下町の跡は、何気ない道や溝、建物の配置に見られる
ことができます。その多いとはいえない跡地を手がかりにして、茨木城とその町並
みを推測し、復元模型をつくった豊田先生。2006年の発掘調査でその推測が
間違いではなかったことが証明されたそうです。まだまだ謎が残る茨木城ですが、
戦国時代に行き交う人を想像しながら歩く道は、いつもと違う風景と気配を感
じ、古都のロマンを楽しむことができました。まちの魅力に厚みを実感しますね。
編集部 尾浴 芳久

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