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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第26回 茨木川

2020.04.20

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第26回は「茨木川」について紹介します。

歴史案内人

茨木市が編集発行した「わがまち茨木 水利編」(平成3年発行)を参考に編集。
※写真提供:茨木神社(茨木川の写真)、茨木高校(水泳の写真)

元茨木川緑地は、全長5キロメートルの元茨木川をグリーンベルトとして昭和50年に整備した緑地だ。現在では桜をはじめさまざまな緑化景観で四季折々の姿をみせる。廃川になる前では想像もつかない姿へと変貌を遂げている。今回はその元茨木川の歴史を紹介する。

茨木川は子どもの遊び場だった
昔、茨木川の土手は昼間でも入れないほど竹やぶのしげみが深く、堤からの眺めは一面水田だった。養精高等小学校(現養精中学)以外は省線茨木駅(現JR茨木駅)の近くまでほとんど家もない。しかし、川エビやハイジャコ、コブナなどの魚とりには良い川だった。茨木神社の横手と現在の茨木高校の真西辺りには深みがあって、大勢の子どもが水遊びを楽しみ、初夏には、竹薮の中で光るホタルを競い合うように捕っていたという。

茨木川で川遊びをする子どもたち。

茨木川と水害
茨木川は、安威川に合流されるまでは、南に急角度に湾曲していた。上流の佐保川からは岩石や土砂が流れ込んで川底が上昇し、雨が降るたびに鉄砲水や濁流が起きて水害が多発していた。江戸時代には堤防が築かれており、緑地化されるまで存在していたようだ。松岡州泉「茨木洪水記」には茨木水防区分図が掲載され出水時警戒区域の分担が明記されている。

寺町橋より西へ通ずる路

昭和10年の大水害
昭和10年6月29日未明、茨木市を大洪水が襲った。深夜から雨が激しく降り出し、雷鳴が轟く。当時の様子を書き記した松岡州泉さんの手記によると、明け方には茨木警察署の警鐘が乱打され、茨木別院の釣鐘が鳴り響いた。町内では、堤防が決壊する前にと人々が土俵を積み、ドンドンという太鼓の音を合図に、警察署員や消防団、町内からも各戸に1名が出動し、警戒と防水にあたった。

しばらくすると中河原右岸120mにわたり決壊。さらに五日市右岸で決壊した濁流が南下して上中条の人家や田畑を襲った。田植え後の稲を流し、養精高等小学校を浸し、さらに下中条一帯へ。小川橋の橋桁は押し流され、付近の道路は削り取られ、水道管やガス菅は切断。電信・電話が不通で、茨木本町と駅前は完全に両断された。床上浸水した家の中では、濁流が壁を抜き畳を浮かし、消防団員などが人命救護にあたった。役場では国防婦人会が炊き出しをし、茨木小学校に避難した町民に配給されたという。

30日の午後には、田畑が浸水し孤島のようになっていた茨木町、玉櫛村、玉島村を再び大雨が襲った。安威川が増水し、以前の決壊で修復工事を行なっていた場所を再び突破して濁流が押し寄せる。茨木町では865戸が1mの床上浸水に。玉櫛村と玉島村でも950戸の安否を気遣い、村民や町民、警察などが一晩中警戒にあたった。

「玉櫛小学校100年史」によると、7月1日には沢良宜東の左岸で2ヶ所が決壊、民家が流出した。太田小学校の西方に広がる田園の作物は全滅。災害後、1万人と言われていた茨木町の人口は8000人に減少し、町の至るところで貸家が目についたという。

当時の学校組合役場前と思われる

撮影場所は不明だが、商店街のようだ

茨木別院を中心に撮影

玉島村大字島付近

洪水に備えた工夫
茨木市南部は土地が低く、大雨ですぐに浸水してしまう。そこで、石垣で土台を高くした「段蔵」を建て、家財などを保管した。時にはこの中で避難生活を送ることもあったようだ。また水害に備えて舟を軒に吊るす家もあったようだ。

茨木川・安威川改修への動き
水害対策への要望は早くから上がっていたが、大正11年6 月、茨木町では茨木川付け替えを含む改修案が出され、昭和10年7月には「安威・茨木川改修期成同盟会」が組織され、沿岸の26町村長も連署した陳情書を政府と大阪府知事に提出。知事は内務省に上申して費用の半分を国庫負担とする確約を取り付け、ようやく改修工事が本格的に始まった。

当初は、安威・茨木川のどちらかを廃川にする予定だったが、府は、茨木川を廃して安威川の幅員を2倍にするという方針へと転換。昭和14年、茨木川を現在の田中町辺りで安威川に合流させ、その後同15年にかけて安威川の大改修工事が行われた。田畑や家屋が移転され、ディーゼル機関車やトロッコを使って多くの村民が働いたこの工事は、当時としては非常に思い切ったものだった。現在、田中町以南の茨木川は、緑地公園や道路として整備されている。

近代水泳発祥の地 茨木高校水泳の歴史
大正初期、府知事から水泳の授業の実施が指示された。他校では合宿などでこれに対応したが、茨木高校(旧茨木中学)では「合宿で保護者に新たな費用負担や水泳を一部の生徒だけに課すことは避けたい」と考え、水泳池を造成した。

水泳池はほとんど生徒自身の作業で行われ、水は茨木川から引き入れた。その後、本格的なプールが完成すると、水泳部員は対外試合で大きな活躍を見せる。上海で開催された第5回極東オリンピックには、3年生と4年生の2人が出場。

第6回が大阪で開催されることに決定すると、プールの上に天幕を張り、銭湯で使われていた竈を利用するなどして水温を上げ、一部を温水プールに改修した。一年を通して練習できるようになった甲斐あって、大勢の部員がこの大会で日本代表選手に選ばれたという。また、昭和3年のアムステルダムオリンピックでは卒業生を含む3名が、さらに昭和7年のロサンゼルスオリンピックでも卒業生3名が選手に選ばれ、数々のメダルを獲得した。

茨木高校が「水泳ニッポン」の基礎を築いたと言われる所以はここにある。歴史をひも解くと茨木川が日本の水泳に大きく貢献したといっても過言ではない。

「水泳場の造成作業」
1915年、2代目プールの造成作業が始まった。生徒たちは体操の授業時間
を使い、ツルハシやスコップで運動場を掘り起こし造成に励んだ。

「アムステルダムオリンピック出場を記念して」
アムステルダムオリンピック出場の記念写真。

「高さ10mの飛び込み台を備えた2代目プール」
1916年に完成した2代目プール。1929年には高さ10m
の飛び込み台を取り付けた。

取材を終えて
元茨木川緑地の散策路の所々に石碑が建てられています。茨木川の水を利用していたのは主に農業であったことから、農業に役立ってきた樋門の跡に建てられています。水害に悩まされた茨木川ですが、石碑を見ると先人たちの川に対する感謝の気持ちが表れています。
シティライフ編集部 尾浴芳久

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