直木賞作家・伊与原新が語る 北摂の記憶と変わるまちへの思い
2026.04.06
2010年に作家としてデビューし、2025年には『藍を継ぐ海』で直木賞を受賞した伊与原新さんは、実は生まれてからの20数年間を北摂の地で過ごした。当時を振り返りながら、自身の原点や変わりゆく地元への愛着を聞いた。

伊与原新さん 1972年生まれ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。2010年、『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。2025年、『藍を継ぐ海』で第172回直木三十五賞を受賞。
よく遊びよく読んだ、千里丘の思い出
1972年に生まれ、23歳まで千里丘で暮らした伊与原さんは、当時をこう振り返る。
「子どものころは、まだ至るところに空き地があって、友だちや年の近い兄弟と空き地の雑草をかき分けながら、野球やサッカー、秘密基地づくりをして遊んでいました」。自由に遊び回った一方で、読書にも強い興味を示していた。児童会館や移動図書館を利用しながら、江戸川乱歩の『明智小五郎』シリーズやE・W・ヒルディックの『マガーク少年探偵団』といったミステリ小説を愛読した。
また、技術職の父親が科学雑誌『Newton』を1980年の創刊から買い揃えており、幼い伊与原さんもいつしか興味を持つように。「本当に内容を理解していたのかわかりませんが」と苦笑するが、科学を題材にした作品を多く執筆する伊与原さんの関心は、このころから確かに芽生えていた。
読書習慣は、天王寺の中高一貫校へ進学した後も続き、JR千里丘駅前の田村書店(2024年閉店)にも足繁く通っていた。通学カバンには常に本を入れ、アガサ・クリスティやエラリイ・クイーンといった海外の古典ミステリのほか、SF作品も読み込んだ。
「そのころは作家になるなんて、思ってもいませんでした」と振り返るが、少年時代に読みふけった作品の影響は色濃い。実はデビュー作『お台場アイランドベイビー』は、2010年に横溝正史ミステリ大賞を受賞している。「なにかしらの謎があって、最後に明らかになる。今でもそういうミステリ的な手法で物語を書くことが多いですね」と語るように、北摂時代の読書体験は作家としての土台になっている。
まちの変化に感じる寂しさと楽しさ
作家として多忙な現在も、定期的に実家へ帰省する伊与原さん。「通学に利用していたこともあって、JR京都線で新大阪から千里丘へ進んでいくにつれて『地元に帰ってきたな』と感じます」と語るように、故郷への愛着は健在だ。当時通っていた店が営業を続けている様子を見ると、明るい気持ちになるという。
老舗のCDショップ「C-STATION」はその一つ。中学生のころ兄の影響で洋楽を聞き始め、スターシップなどの80年代USロックに夢中だった伊与原さんにとって思い入れのある場所だ。当時はレンタルCD専門だったこの店で借りたCDを父のオーディオでカセットテープに録音し、ウォークマンで繰り返し聴いたという。
伊与原さんの母が馴染みにしている洋菓子店「Frou-Frou(フルフル)」。「母からマロンパイを渡されると、帰ってきたなと感じます」と、目を細めながら語る。
愛着があるだけに、現在駅前で進む再開発などで変わり続けるまちの姿には一言で表現しにくい思いがにじむ。新たなマンションが立ち並ぶ様子を見て「僕の知らない千里丘になっているのが寂しくもありますが、若い家族がたくさんやって来てまちが若返ることは、きっといいことなんだと思います」。郷愁と期待が入り混じる思いを抱えながら、伊与原さんの視線は変わりゆく千里丘のまちの姿を見つめている。

NHKドラマにもなり話題を呼んだ『宙(そら)わたる教室』の続編、『コズミック・ガール 宙わたる教室』(文藝春秋)が4月22日(水)に発売。そのほか近著に『翠雨の人』(新潮社)や第172回直木賞を受賞した『藍を継ぐ海』(新潮社)などがある。
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