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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】 第7回 箕面の巨大動物園と動物

2020.02.10

現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第7回は箕面の「幻の動物園」について関西大学の学生がレポートします。

歴史案内人
関西大学政策創造学部の深井麗雄ゼミの2年、3年次生の6人が箕面市役所、クラブコスメチック社、研究者らを取材しました。

小林一三と中山太一
1910年、箕面山に日本初の巨大な民間動物園が開園した。仕掛け人は小林一三。関西の鉄道王で、甲子園球場の二倍の園には世界中からライオン、ゾウなどが集められ、大観覧車や水族館まで併設された。この「明治のテーマパーク」に目をつけたのが、同じころ神戸に彗星のように現れた化粧品王、中山太一。動物園全体をメデイアととらえ、自社の白粉(おしろい)や洗顔料の「広告の場」として使った。小林はその後も柔軟な発想で、阪急電鉄を中核に宝塚歌劇団、百貨店など事業を拡大。中山も、通天閣の巨大な天井画や飛行機までつかった斬新な広告を展開した。稀代の企業家二人の、奔放な戦略が交差した、1世紀前のサプライジングな動物園をのぞいてみたい。

日本一の動物園、と題した園内地図には動物たちのゲージなどが明示され、絵図の回りに箕面らしい紅葉がカラーであしらわれた。(箕面市行政史料・個人寄託)

大観覧車

ライオン塔(箕面市行政史料・個人寄託)

甲子園球場の2倍の動物園
1910年(明治43年) 11月1日、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の箕面線開通とともに、現在の箕面観光ホテルのあたりに開園した。上野動物園、京都市動物園に次ぐ本格的な園で、面積は約10万平方メートル。

甲子園球場の2倍、民間主導による日本最大級の動物園だった。
世界各国からライオンやゾウ、トラをはじめ、孔雀やオランウータン、ホッキョクグマなど珍しい動物が集結。特に珍しい白孔雀には特別の鳥舎が用意された。来場者はラクダやロバに乗って園内を周遊することもでき、噴水を兼ね備えた水族館も満喫。さらには、イルミネーションで輝く観覧車に乗るなど、当時では画期的な試み満載の、夢のようなテーマパークであった。

しかし開園わずか6年で閉園し、動物たちは他の園に引きとられた。
園の維持費の増大など原因は諸説ある。

都市史の研究者である豊田裕章さんは、資料や現地調査をもとに推定復元案を考え、2014年2月、大阪府立学校の生徒とともに箕面動物園の模型を作って公開した。豊田氏は「北浜銀行頭取である岩下清周や岸本汽船社長の岸本謙太郎と小林一三との関係などの当時の関西財界の動きが箕面動物園の閉園の問題とも大きく関わるのではないか」と指摘する。

動物園はメディアだ
‐歯磨きの広告‐

「日本一の箕面動物園、世界一のクラブ化粧品。」1903年創業の中山太陽堂という化粧品会社とのコラボ広告で、園のあちこちに立てた看板やビラなどに盛んに使った。同社は創業3 年でクラブ洗粉、(今でいう洗顔料)を売り出し、わずか1年で404万5263個売り上げるという、全国の女性から絶大な支持を得た超人気企業だった。創業者の中山太一は広告王とも言われるほど広告に力を入れた。箕面動物園が開園した1910年に、日本で初めて飛行機が飛んだ。中山はこれに注目し3年後の1913年、機体に自社の洗粉などの広告を貼った飛行機を飛ばして、人々の度肝を抜いた。同年にアドバルーンを使った宣伝も行い、いずれも日本初の移動体広告だった。

動物園内では美人画に白粉(おしろい)や歯磨き粉を取り込んだポスターなどが配られたり、園内のあちこちに同様の看板が立てられた。(箕面市行政史料・個人寄託)

音楽隊の以外なルーツ
1909年(明治42年)東京三越が「三越少年音楽隊」を結成、百貨店や大型店舗での少年音楽隊が一時ブームとなった。中山太陽堂もこれをモデルに1 9 1 4 年( 大正3年)、商品名を歌ったりして宣伝を行う「クラブ少女音楽隊」を結成した。また宝塚歌劇の前身である宝塚唱歌隊は小林一三によって1913年(大正2年)に結成された。小林一三の著作逸翁自叙伝には「宝塚新温泉もこれを真似て、三越の指導を受け、ここに唱歌隊を編成することにした」という記述があり、二人の音楽隊のルーツは三越、と言えそうだ。

箕面動物園のトラ (箕面市行政史料・個人寄託)

子どもたちはラクダの背中に乗ることもできた (箕面市行政史料・個人寄託)

その時代
箕面動物園(明治43年開園)ができた明治の末期から大正にいたる時代は西欧の産業革命の影響をうけた日本の産業の勃興期で、重工業から化粧品などの生活用品まで、鉄道網も含めあらゆる分野が飛躍的に発展した。企業の増加で都市部に通う会社員などの中間層が増加し、彼らがその後の大正モダニズムに代表される新しい文化の支持者となった。大正元年に映画会社「日活」や「吉本興業」が設立され、小林一三の「宝塚少女歌劇」は大正3年に初演された。

通天閣もメディアだ
‐白粉(おしろい)の広告‐
箕面動物園の開園2年後の1912年(明治45年)に開業した初代通天閣のエントランスの天井画で、中山太一が創業した中山太陽堂(現クラブコスメチックス社)の商品名が広告としてデザインされている。同社広告部の嘱託社員でもあった版画家、織田一磨氏が描いた。描かれた白孔雀は当時珍しく、箕面動物園では特別な鳥舎で飼育された。織田氏が広告の仕事(広告看板の作成など)で園に出入りしていた可能性は十分にあり、箕面動物園の白孔雀が天井画のモデルになった可能性はあるが、それを示す確たる資料はない。
天井画はその後姿を消したが、紆余曲折を経て今年7月復刻されクラブコスメチックス社が寄贈した。縦横とも17メートルの八角形。

初代通天閣の天井画(クラブコスメチック社提供)

今年7月、復元された通天閣の天井画(クラブコスメチック社提供)

学生の「取材を終えて」
100年ほど前の動物園について関係者を取材して気づいたのは、「~だと思う」という推測が多かったことです。その中から事実だけを取り出すことが如何に難しいかを痛感しました。しかし歴史の迷路をさまよううちにクラブ化粧品や100周年を迎えた通天閣との意外なつながりを発見出来たことに面白さややりがいを感じました。この経験を糧に新たな分野にチャレンジするつもりです。
関西大学政策創造学部
福井大智 八尋佐聖
井上大輔 尾形由妃
竹嶋美知瑠 真島里佳

記事内の情報は取材当時のものです。記事の公開後に予告なく変更されることがあります。