シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】 第12回 世界一日本万国博覧会開催へのあゆみ-全3回シリーズ - その1
2020.03.09
現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第12回は「日本万国博覧会開催」について、大門芳一さんにお話をお聞きしました。
歴史案内人
取材協力 大門芳一さん。
大阪府日本万国博覧会記念公園事務所 所長1956年生まれ。大阪府出身。1982年4月より大阪府庁勤務。2014年4月から現職に。現在は地域の活性化に向け、より快適な公園づくりに励んでいる。
万国博覧会の誕生
世界で最初の万国博覧会は、1851年にロンドンで開催された「万国の産業の成果の大博覧会」だ。以降、フランスやアメリカなど欧米諸国が次々に万博を開催する中、日本人が初めて目にしたのは1862年のロンドン万博だった。
開港延期を直談判するため江戸幕府から派遣された文久遣欧使節団が、偶然ロンドンに滞在していたのだ。開会式に出席した一行は、革新的な技術を用いて生み出された製品の展示や華麗壮大な演出に驚愕したという。
申請受理を喜ぶ佐藤大阪府知事ら。
将軍徳川慶喜が1867年パリ万博に派遣した幕府使節団一行。中央が慶喜の弟の徳川昭武。
将大阪市内でも万国博開催決定の祝ボードが掲げられた。
開催決定まで
1964年当時の大阪は、大阪市への人口や産業の過度な集中にともない、住宅不足や交通渋滞など都市機能の低下が深刻な問題となっていた。施設や道路の整備を進め、健康的で住みやすい住環境を整えると同時に、西日本の中核として都市機能をいっそう強化することが急務だった。こうした課題の解決に向けて、大阪府はアジアで初めての万博を大阪に誘致しようと、万国博大阪誘致委員会を発足させ、市や商工会議所とともに国への積極的な働きかけを始める。 当初会場候補地として、大阪府は千里丘陵を、大阪市は南港埋立地を推薦していた。府と市の間では再三にわたる協議が行われ、地域の開発や交通条件などさまざまな観点から、近畿全体が納得して推進できる地として、同年11月に千里丘陵案に決定したという。 しかし、会場に立候補したのは大阪だけではなかった。兵庫と滋賀もまた、良好な立地条件を示して立候補し、それぞれが誘致委員会を発足させて積極的な誘致活動を行っていたのだ。一時は、千里丘陵を第一会場に、神戸と琵琶湖を第二会場にする会場複数案も打ち出されたが、通産省は、万博の盛り上がりや観客のアクセス面から会場一本化案を強く推進。会場調整は困難を極めた。ようやく千里丘陵を会場とする決定が下されたのは1965年4月、博覧会国際事務局への開催申請期限が来月に迫る中だった。そして5月、日本の申請が受理。競合となるおそれもあったオーストラリアが申請をしなかったため、9月14日、千里丘陵での万博開催が正式決定した。
会場用地の確保
千里丘陵は都心から近い里山であったが、東側には名神高速道路が通じ、西には千里ニュータウンが開発され、会場予定地にも分譲住宅が建ちはじめ、阪急電鉄などの企業も住宅地開発のためすでに一部を取得していた。しかし万博を開催するには、用地を確保しなければならない。1965年4月、会場予定地が千里丘陵に決まるや、大阪府は直ちに用地買収に乗り出した。限られた期間、話し合いによる示談だけで330万㎡もの広大な土地を確保することは至難の技だ。住民の協力なしには不可能な事業で、交渉は難航した。しかし、1968年7月、ついに212万㎡用地の確保が完了した。
会場となった千里丘陵の着工前の写真。
最終的に採用されたシンボルマーク。五つの花弁は五大州、つまり世界を表わし、ともに手をとり合って万国博へ参加しようと意図している。中央の円は日本の日の丸。カラーは3色のパターンがある。
石坂氏による書の色紙。
テーマとシンボル
1900年代後半、万博は、革新技術を用いた新製品を展示する「見せる万博」から、テーマを中心に万博を設計し、テーマが示す課題について人々に語りかける「考える万博」へと変わっていった。大阪万博のテーマは、「人類の進歩と調和」。ここには、技術の進歩をほめたたえるばかりではなく、その進歩がもたらした社会のひずみにも目を向け、調和のとれた平和な社会を目指そうという想いが込められている。西欧文明中心主義からの脱却と、アジア初の万博としての「和の精神」が息づくテーマだ。 一方、シンボルマークは15名のデザイナーによる指名コンペで、他の作品が選ばれていた。ところが就任直後の財団法人日本万国博覧会会長の石坂泰三氏が「ナンセンス」「ある特別のインテリだけの理解が得られるようなものであってはだめだ、大衆性がなければ」と発言。〝財界の総理〞とも呼ばれるほど政治経済に影響力を持つ石坂氏の反対によって選考はやり直しとなり、デザイナーは再度作品を提出することに。最終的には大阪市在住の大高猛氏の桜をモチーフとした作品が選ばれ、1966年4月に正式採用されたという。
太陽の塔
テーマ館として建設され、今なお万博記念公園にそびえ立つ「太陽の塔」。これを手がけた芸術家の岡本太郎氏は、1967年7月にテーマ展示のプロデューサーへの就任会見を行い、その翌日から2ヶ月間中南米とカナダのモントリオール博を視察した。旅行中にはすでにアイデアスケッチを始めていたようだ。そして帰国後の10月18日、お祭り広場の模型に合わせて50分の1サイズの石膏原型が完成した。実物は避雷針含め高さ75m、てっぺんに直径11.6mもの黄金の顔を持ち、夜になると両目から光を放つ。当時の岡本太郎氏は「気どった西欧的なかっこよさや、その逆の効果をねらった日本調の気分、ともども蹴っ飛ばして、ぼーんと、原始と現代を直結させたようなベラボーな神像をぶっ立てた」と述べている。
石膏原型と岡本太郎氏(1967年10月)。
岡本太郎氏による五大陸を象徴する5本の塔のイメージと、太陽の塔のラフスケッチ。
参加招請
外国への参加招請について、政府は1966年8月の閣議で「国交のある外国政府と、わが国が加盟している国際機構に対して行う」と決定。公式招請先は133カ国、24国際機構になった。また、都市や企業、団体などの参加も募り、パビリオンは合わせて116(外国85、国内31)に達し、出展者が揃った。
参加者への協力
会場付近には宿泊施設が少なく、日本の住宅事情が外国とは大きく異なっているため、出展者のための外国人宿舎も新たに建設された。使用料は1DKで月額5万円、2 D Kで6 万円、3DKで7万6千円など。また、入居者の自治委員会や各国代表からはレクリエーションや娯楽への要望が強かったため、三菱や住友など有力企業の協力を得て近辺の総合運動場や市民プールを借受け、スポーツをしに週に一度はバスを運行していた。この他にも、民間団体や府県市がお花見や歌舞伎鑑賞や京都観光などに招待し、出展者は日本文化を存分に楽しんだそうだ。
参加勧奨の旅にでる石坂氏。
最初に出展申込のあったカナダ
外国人宿舎の内部
水を楽しむ外国人入居者たち(吹田市民プール)
取材を終えて
日本万国博覧会は北摂、いや日本の誇りとも言うべき出来事でした。当時を知らない人も知る人も記憶にとどめ、成し遂げた世紀の祭典を後世に伝えていきたいですね。
編集部 尾浴 芳久
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