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シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第18回 高校野球のルーツは北摂にあった-1913年の豊中運動場 -

2020.03.26

TV視聴率の20%越えは当たり前といわれる甲子園の高校野球のルーツは豊中にあった。1世紀ほど前に完成した豊中運動場。建設からわずか9年で姿を消したが、そこには球児たち以外にも主人公がいた。それは市民だ。

歴史案内人
取材協力 辻井花歩さん
関西大学文学部大学院 辻井花歩さんが豊中運動場を長く取材している毎日新聞の松本泉記者や豊中運動場周辺の住民らに話を聴きました。

野球と市民の壁は高さ1m
豊中運動場は、1913年に現在の阪急電鉄の沿線振興策の一つとして建設された。今の豊中駅から西に約1㌔のあたりだ。東西150m南北140m。面積は2万1000平方㍍。3万8500平方㍍の甲子園球場の半分程度で、収容人数は約5千人だった。バックネット、バックスクリーン、外野フェンスなし、外野は芝ではなく草むらで、杭と縄で区切られていた。同年8月に行われた現在の夏の甲子園大会の元である1 9 1 5 年と翌1 6年の全国中等学校優勝野球大会の会場となった。球場を囲む赤煉瓦の塀は高さ1㍍。場外からの観戦も可能だったからおおらかだ。高校野球と市民の暮らしには、境目がなかったといえる。

全国中等学校優勝野球大会第1回大会。大阪朝日新聞社の村山龍平社長の始球式(1915年8月)

完成翌々年の1915(大正4)年当時の豊中グラウンド=豊中市提供

市民がルールをつくった
高校野球の長い歴史の中で敗者復活戦が行われた試合が3 試合あった。その初めての試合は豊中運動場であった。しかし、敗者復活戦から大会優勝校が出てしまったことで、観客から「1度負けたチームが優勝するのはおかしい」という意見が噴出し、敗者復活戦は廃止された。市民がルールをつくった瞬間だった。

全国中等学校優勝野球大会第1回大会。熱戦の1コマ「毎日新聞提供」

第1回大会で使用されたボール(甲子園歴史館所蔵)

持ち込みオッケー、審判も
豊中運動場は入場無料で、様々なものが自由に売られた。当時としては超高級食品であるサンドイッチやハム、ソーセージに加え、三ツ矢サイダーなども売られ、連日売り切れ御免だった。現在のミズノである美津濃運動具店は、豊中球場誕生と同時に野球グラブとボールを製造開始。1 9 1 4 年には堂島工場を構え、野球用具を本格的に生産するようになる。この球場では審判すら「持ち込み」だった。現在では4 人審判制や6 人審判制が普通であるが、当時は単独審判や2〜3人の審判で行われており、旧制高校などの野球部員や取材に来た記者が、飛び入りで審判を頼まれることもあったという。

運動場開設当時はなかった豊中駅

ラグビーやサッカーまでも
野球だけでなく、高校ラグビー、高校サッカーの発祥の地でもある。あるときはクロスカントリーのスタート地点にもなった。「コース取りのために田んぼを踏み荒らすな、野井戸が多数あるので注意せよ」などという呼びかけが行われた。毎日新聞社は日本オリンピック大会を開催。1917年に行われた日本フィリピン・オリンピックでは、グリコの看板のモデルだという説もあるカタロン選手が出場した。

今でも運動場と駅を繋ぐ一本道は健在

人気が仇で引越し
豊中運動場から「全国中等学校優勝野球大会」が消え、その舞台が兵庫県の鳴尾運動場に移ったのは1917年である。その原因は皮肉にも「中等学校野球の人気」だった。1916年の第2回大会では入場者が5日間で数万人にのぼった。観覧席は5千人ほどだったから、観客はグラウンドにあふれ出した。電鉄会社の輸送力も限界を超え、試合後は何時間も待たなければ電車に乗れなかった。梅田までの13㌔を歩く客まで現れた。そこで大会を主催する大阪朝日新聞社に新運動場の建設を申し出たのが阪神電鉄だった。兵庫県鳴尾村にあった鳴尾競馬場に大規模なグラウンドを作る計画だった。競馬のトラックの内側に、陸上競技用のトラックと、その内側に野球場を二つ設け「野球2試合が同時にできる」というのが売り文句だった。

閑静な住宅街にある小さなメモリアルパーク

市民がつくる高校野球史
結局、豊中運動場の跡地は住宅地になり、今その歴史を伝えるものは跡地にできた小さなメモリアル・パークとニ軒の民家の塀だ。球場で使われたあの赤煉瓦の壁が、二軒の民家の塀として使われている。民家の主は40年前、不動産業者から「歴史のあるお宅です」と紹介された。「阪神淡路大震災でひびが入り色も変わっていくが、ずっと残したい」と話し、自らセメントを塗ったりして補修しているという。
高校野球の歴史をつくってきたのは選手、観客だけではない。地元の電鉄会社から運動具店主、サンドイッチやサイダーの売り子、不動産屋の営業マン、塀の持ち主まで、多くの組織や市民が高校野球を支えている。

住民が継ぎ足し繋いでいく歴史あるレンガ壁

取材を終えて
彼氏の応援で甲子園へ行ったときも、リオ・オリンピックを見たときも、感動とは別の気持ちがあった。「あちら」(選手)と「こちら」(観客)は別世界、ということだ。しかし今回記事を書く過程で、今程ルールも設備も整備されていない頃に、近代スポーツを形作った市民の存在を知った。今から100年も前ですら、「あちらとこちら」を隔てる壁は、わずか1mの高さしかなかったのだ。豊中運動場と毎日新聞の松本泉さん、赤煉瓦を守る住人の方たちは、そのことを私に気づかせて下さった。私たちは今もスポーツの観客であると同時に、主人公であるに違いない。
関西大学文学部大学院 辻井花歩

記事内の情報は取材当時のものです。記事の公開後に予告なく変更されることがあります。