シティライフアーカイブズ【北摂の歴史記録】第13回 世界のまつり「日本万国博覧会開催」-全3回シリーズ - その2
2020.03.10
現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第13回は「日本万国博覧会開催」について紹介します。
開会式
1970年3月14日、日本万国博覧会がお祭り広場で華やかに開幕した。開会式には天皇、皇后両陛下をはじめ、佐藤栄作内閣総理大臣、石坂泰三万博協会会長、国内出展者ら約7500人の来賓が出席。東洋的で日本的な情緒あふれる式典は、「人類の進歩と調和」への願いをのせ、衛星テレビ中継で全世界に届けられた。
紙吹雪にいろどられた式場。開会式典基本要件には「人類の進歩と調和」を具現
したもの、参加者が初めて体験する式典であることなどが盛り込まれていた。
ナショナル・デー
万国博には、参加国や都市が会期中の1日、特色ある催し物を開催する祝祭典日「ナショナル・デー」「スペシャル・デー」を挙行する伝統があった。大阪万博では、73回のナショナル・デーと15回のスペシャル・デーを開催。観客は、国境や言葉の壁を越え、各国や都市の文化や生活、習慣に触れて国際的な理解を深めた。
催し物
◎お祭り広場
お祭り広場では連日、世界や日本各地の舞踊や芸能が華麗に、ダイナミックに開催され、観客は各国の文化に魅了された。催し物のフィナーレには出演者と一緒に観客も歌い踊り、人種も国も関係なく楽しむ人々に、〝世界は一つ〞という実感を与えた。
お祭り広場でお披露目した「日本のまつり」
◎野外劇場
世界の子どもたちが手をとりあって歌い踊り、見ている大人たちもともに合唱する光景が会期中何度も見られた。特に子どもバレエやダンスでは外国チームと日本チームが競演するなど暖かい心の交流が生まれ、万国博の意義を高めた。
◎フェスティバルホール
世界的なピアニストや各国のフィルハーモニー管弦楽団、交響楽団など超一流の音楽家や楽団によるクラシック演奏が行われ、延べ19万人を超える聴衆に圧倒的な感動をもたらした。
◎万国博ホール
ポピュラー音楽を中心に、斬新な演出の舞台が多数上演された。これほど多くの一流芸能人が出演したのは、万国博史上でも珍しいという。
◎水上ステージ
自走するステージやコンピューターと連動して乱舞する音楽噴水など11カ国の芸能人や学生らによる最新技術を駆使した舞台で人気を集めた。
◎移動芸能
道化師をはじめとする一行が会場のあちこちで愛嬌をふりまき、ほほえましいいたずらで明るい笑いを誘い、会場のムードを盛り上げた。
パビリオン
博覧会の主役であるパビリオンは、参加国の名誉と威信をかけて建設された。ソ連やアメリカは大々的に宇宙開発技術をアピール。途上国は小展示館を組み合わせるなどの負担軽減策が講じられる一方で、旧財閥系グループをはじめ、企業によるパビリオンが諸外国を超える予算を投入して30館立ち並び、非日常の光景をもたらした。
前売り券発売告知のポスター。入場料は大人800円、小人400円とされ、前売り券は5%〜20%引きだった。
テーマ館
ユニークな発想やバイタリティなどが高く評価され、テーマ展示のプロデューサーに就任した岡本太郎氏は、モントリオール博の視察後、テーマ館の一部として太陽の塔を製作。その内部を「地下―過去」「地上―現在」「空中―未来」の3つの展示空間で構成した。ダイナミックな展示技法を駆使したテーマ館は、現在・過去・未来を貫く生命エネルギーの象徴として、また、世界の人々が顔を合わせる出会いの場として見る人に強い感銘を与えた。
地下展示ゾーン「いのりー
神々の森」。コロナを放つ巨大な仮面(右奥)は、太陽の塔の3つの顔とともに岡本太郎が制作した4番目の顔「地底の太陽」。現在行方不明。
太陽の塔の視線の先にはエキスポ
タワーがあった。夜には目から光線を放つ。
ソ連館。1970年がレーニン生誕100年にあたったため、第1会場はレーニンの生涯と活動を紹介した。
せんい館。横尾忠則の感性で独創的なフォルム。テーマは人間生活を豊かにする。
カナダ館。外面は鏡張りだが、中庭に面した壁は木材の素肌が展示品として映るようになっている。
国際館
アメリカ館・英国館・EC館(現EU)・イタリア館・インド
館・オーストラリア館・オランダ館・国連館・コロンビア
館・サウジアラビア館・スイス館・タイ館・大韓民国館・
中華民国館・ドイツ館・など77カ国が参加
企業館
IBM館(日本IBM)・ガスパビリオン・クボタ館・サントリ
ー館・住友童話館・自動車館(日本自動車工業会)・
東芝IHI館・日立グループ館・富士グループパビリオン
・松下館など約30館
入場者数
万国博が開催された1 8 3 日間の総入場者数は6 4 2 1 万8770人だった。この数字は、1967年のモントリオール万博と比較しても1400万人以上多く、万博史上最高を記録した。1日83万人以上が詰めかけ、入場制限を実施したこともあったという。例年にない寒さに見舞われ出足は低調だったものの、月を追うごとに増加し、夏休み期間に入った5〜6ヶ月目には爆発的に増加した。最後の1ヶ月は総入場者数の4分の1を超える26.6%が来場し、入場者は会期後半に集中した。特に、午後5時以降の夜間入場の伸びが大きく、夜間入場券の販売枚数は998万7149枚にのぼる。期間中の拾得物は5万件以上、迷子4万人以上、救急出動1万回以上。その数字が開催期間中に起こったさまざまな出来事と、万博の盛況を物語っている。こうして世界中の人々が一つの場所に集まり、同じ感動を分かち合ったことはかつて例を見ないものであり、日本万国博の主役はまさにこの観客だった。1970年9月13日、閉会式が行われた。
西大通り、火曜広場からの写真。日本全国、世界からも多くの人が訪れた。
住友童話館の行列。人気パビリオンは2~5時間待ちも珍しくなかった
こんなことも・・・
1970年4月26日~5月3日の期間、太陽の塔の目玉に座り込んだ事件、「目玉男」。「万博をやめるまでは降りない」と、横たわり、籠城した。「記者会見をさせてくれたら降りる」と条件を示し、警察は応じたふりをして逮捕した。
総入場者数:
6,421万8,770人
(うち外国人 約170万人)
総売上金額:
入場券 約163億円
食堂・売店関係 約446億円
1日の入場者:
最高 83万5,832人(9月5日)
平均 約35万人
人種や文化を越えた温かい交流。最終日は涙を流して別れを惜しんだ。
取材を終えて
圧倒的なスケールで豊かな彩り、アイデアの限りを尽くした世界最大級の「まつり」は、ほんの46年前に、ここ北摂で開催されていたんですね。そう思って現在の万博記念公園に訪れると、至る所に「日本万国博覧会」を成し遂げた先輩たちの、「熱を帯びた足跡」を感じることができます。
編集部 尾浴 芳久
協力:大阪府日本万国博覧会
記念公園事務所
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