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 シティライフアーカイブズ 【北摂の歴史記録】第14回 日本万国博覧会会場跡地の利用-全3回シリーズ - その3

2020.03.12

現在、そして未来につながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。
北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。
第14回は「日本万国博覧会会場跡地」について紹介します。

会場跡地の利用
過去の万博では、跡地の有効利用が重視されており、会場計画の段階ですでに跡地利用の計画を立て、これを前提に会場を建設している。観光地として有名なエッフェル塔も、1889年に行われたパリ万博の遺産だ。こうして跡地のほとんどが公園や文化施設として活用され、都市の発展に大きく関わっている。
大阪万博でも、開催4年前の1966年には跡地利用についての基本構想が作成されている。教育施設、官公庁、公園など複数の案が出され、1969年5月には学識経験者18人、報道関係7人のほか、労働組合や一般市民、青少年、地方公共団体代表など合計39人を委員とする日本万国博覧会跡利用問題懇談会が発足した。
1970年12月、跡地は当初の案にあった「緑に包まれた文化公園」とする基本方針を決定。文化水準の向上や健全な余暇利用、青少年の体力向上などに役立てるため、その全域を多くの人々が自由に楽しめる公園にするとした。ただし、大阪大学は会場用地の買収時点ですでに土地を取得しており、北西部分は分割することになった。
撤去工事は順調に進み、万博のために設けられた北大阪急行電鉄の鉄道軌道や京阪神急行電鉄の臨時駅の撤去は1 9 7 0 年12月に完了。1971年1月には展示館や営業施設など、全ての撤去が完了した。そして同年9月1日、跡地の整備・維持管理を行う認可法人日本万国博覧会記念協会が設立された。

日本万国博覧会後の撤去のようす。
背後の塔は「古河パビリオン」。

エキスポタワーは2002年8月から2003年3月にかけて解体・撤去された。

太陽の塔はなぜ残ったのか?

当初、太陽の塔は取り壊される予定だった。1971年、エキスポランドやエキスポタワーを含めた処理問題が懇談会内の小委員会で検討される。ここで、お祭り広場の施設や大屋根、太陽の塔は、約1年の猶予期間の後、有効な利用方法がなければ撤去されることが決まっていた。しかし、京都や東京で撤去反対の署名運動が起こる。過去の作品にこだわらない岡本太郎氏も太陽の塔に関しては存続を訴えており、これを受けて1975年1月の施設処理委員会で永久保存が決定した。

自立した森づくり

1972年10月、万博記念公園の基本計画が定められた。基本方針では「国際性をもった新しい国民的財産」「自然環境の復活と維持」「人と自然の調和」という理念のもと、自然の中で市民が参加、体験できる文化的活動の場を提供すること、万博記念協会は施設を活用して魅力ある活動を積極的に企画・推進することが求められている。258haもの、人間と自然が触れ合える「緑」の環境の実現。それは、万博開催のために切り開かれた豊かな緑を、人間の知恵と技術で再び復活させようとするものだった。
パビリオンが撤去された後更地となった土地は、外周から中心にむけて緩やかな傾斜となる「すり鉢状」に造成された。これは、排気ガスや騒音、強風などを遮断するとともに、樹木を立体的に見せ、緑に包まれている安心感を来園者に与える効果を生み出している。

公園には、「密生林」「疎生林」「散開林」の3タイプの樹林が構成され、約250種、60万本の樹木が植栽された。これらが目指すものは「自立した森」である。それは、内外での都市化に抗しても生き生きとした森で、昆虫や野鳥などの多様な生き物と人間、自然環境とが共存できる森を意味している。 しかし数十年をかけ、緑の量としての森は造成できたものの、多様な樹木が生長する「自立した森」の実現にはいたっていない。そのため日本万国博覧会記念機構(当時)では、京都大学や大阪府立大学と協働で、生物多様性に富んだ森づくりに向けて調査研究に取り組んできた。

博覧会終了後、パビリオンの瓦礫の上に土を敷き詰めた。西と南側の外周部を高く盛土し、外周部から中心部の人工の池に傾斜となる「すり鉢状」の地形造成がなされた。これは植栽する樹木とともに排気ガス、騒音などの外部からの悪影響を遮断する役割と、立体的に樹木を見せ「緑に包まれた」という安堵感を与えるのに役立っている。

森の問題点(約20~25年後のモニタリング調査より)
1.同年齢個体からなる過密林となっている。
2.多くの樹種を植栽したが、シイやカシなどの常緑広葉樹以外の樹種の成長が芳しくなく、樹種の少ない林相となっている。
3.林床が暗く、階層構造が未形成のため、昆虫や鳥などの生き物の種類が少ない。
4.林内で若い木が育っていないため世代交代が困難となっている。
5.孤立緑地であるため、周辺からの種の供給が困難である。

万国博覧後の主な残存施設
●エキスポランド・・・2009年閉園。
●エキスポタワー ・・・2003年解体。
●国立国際美術館(万国博美術館)・・・大阪市北区中之島に移転。後に解体。
●万国博ホール ・・・国立国際美術館とともに2005年に解体。両館の跡地は「日本庭園前駐車場」。
●青春の塔・母の塔・・・大屋根撤去の際に青春の塔のみエキスポランド内に一時移設。後に撤去。
●万国博協会別館(万国博覧会郵便局)・・・万国博記念館として整備された後、「生活誕生館D I L I P A 」となった。DILIPAは2015年に解体。

1972年に開園
1972年、広大な芝生の広場や太陽の塔を含む自然文化園を公開して万博記念公園が開園した。同時に、万博からの残存施設であるエキスポランドや日本庭園、パビリオンの一つだった大阪日本民芸館なども公開された。その後、外周部の駐車場は万博記念競技場などのスポーツ施設と整備され、1977年には、文化人類学について研究し、展示を行う国立民族学博物館が、2000年には森の中の観察路ソラードがオープン。自然や文化
スポーツなど様々な分野の施設が開園・開場している。

日本万国博覧会の施工前の千里丘陵(1967年)

会期中(1970年)

撤去後(1971年)

1985年

2011年

今後のビジョン
万博記念公園は都市部に貴重な緑をもたらす憩いの場である。生物多様性の保全に世界的な関心が高まる中、人と自然がふれあえる豊かな森づくりが今後も求められる。
また訪日外国人の増加に伴い、大阪府が2020年までの来阪外国人の目標を年間650万人と掲げたことで、万博の遺産を活用した高い集客力が期待されている。
少子高齢化社会においては、安全に自然と触れ合うことができる場を提供することで、多世代の交流の機会を創るとともに子どもの体力と感性を育む。震災等の大規模災害時における防災拠点や、NPO法人やボランティア団体の活動と交流の場として「共助社会」に貢献するなど、地域の活性化や防災にも活用される。さらに、芸術・文化やスポーツを楽しめる場として、ライフスタイルの多様化に重要な役割を果たしており、「人類の進歩と調和」が今でも普遍的テーマとして息づいている。

取材を終えて
日本万国博覧会を3回シリーズでまとめてみましたが、ほんの一部を拾い集めただけとなりました。出来事をアーカイブズすることもままならないほど巨大なテーマで、人間ドラマには触れることすらできなかったことが残念です。
編集部 尾浴 芳久
協力:大阪府日本万国博覧会
記念公園事務所

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